舟橋企画「サマーウォーズ、とでも名付けるかと思ったかね。」第二夜はかしやましげみつ君(孤独部)との演劇対決「ふたりのひとりしばい」。
僕がライブハウスで演劇をやる後押しになった存在は紛れもなくかしやましげみつ君との出会いによるものだろう。ライブハウスに演劇で殴り込みをかけている、挑戦を続ける男がいるのならばライブハウスで日夜時間を重ねているバンドマンがやって出来ない事はないはずだ、という妙な確信めいたものがあったのは確かだ。そして今年の一月の演劇公演、そこで僕は生まれて初めて自分自身の中から出てきた表現を人に突きつける快感を知ったのだった。勿論、バンドで鳴らしてきた、鳴らしている音楽が僕の表現でないというわけではない。だけれども僕が中心となって表現の芯を形作る事って実は今までになかった事ではあったのだ。
今回はそんなかしやま君の力を借りず、まず自分自身の判断と采配で演劇作品を作ってみようと思った。
前回僕の出演シーンはほぼ即興、演出として演技をしない役柄だったので稽古も一切せずに臨んだのだが、今回は演劇というフィールドに立ってしっかりと構築しよう、と思っていた。
キャストもこの人達と、という人に声をかけ、手伝ってくれる人間も集まった。
中でも九鬼君には相当な負担を強いたと思う。彼のお陰でこの日はスムーズに進行する事が出来た。まず、九鬼君有難う。
さて携わってくれる人も集まり、あとはやるだけ。
かしやま君とも「当日が楽しみだ」と話をしていた。
だけれども、彼女の死をきっかけに作りたいものが代わった。や、これには語弊があるな。作っていたものが途端に嘘臭く思えるようになった。数日前まで鮮やかに思えていたものが酷く色褪せたのだった。
制作途中だった作品は「もしも僕がバンドをやっていなかったら」という演劇作品で、タイトル通り僕がバンドをやっていなかったらどんな人生を送っていたかを描いたものだった。普通に就職して結婚して、子供が出来て家族になってそして死んで、という当たり前だけどかけがえのない人生を描いて、でも今の自分はそれに価値を感じない、表現こそが芯でありそれをやらなければ自分自身の人生に価値を見出だせない、とまとめるつもりだった。彼女は僕の娘役で出演するはずだった。
彼女が逝く直前に残した書き置きには「出演依頼を引き受けたのにも関わらず、全う出来ずにごめんなさい」とあった。責任感の強い彼女らしい。だけどもそれを僕が読む頃には、僕はすっかりその作品に興味を失っていた。
妻役を演じるはずだった田中みなさんには「そう言うと思っていた」と言われたしメインテーマや音楽を作ってくれていた鈴木君(studio penne)にも「それは自然な事ですよ」と言われたけども、僕は散々多くの人の力を借りて作っていた作品を一瞬で捨てようとしていた。あの時の事を思うと関係者には本当に申し訳なく思う、だけれども、捨てて良かった。
その時の僕には人生は表現なんてしなくても、芸術に殉じなくても十分に素晴らしいものだ、生きているだけで価値があるものだ、と心の底から思っていた。作品に嘘を書く事は出来ない。
こうして「もしも僕がバンドをやっていなかったら」は棄却された。
彼女の訃報を聞いて、かしやま君とも話をした。
死んだ人間に生きている人間がやりたい事を引き留められる必要はない。それは悼む事とは少なくとも今回は違う。だからこそ何をやるかその直前まで決まっていなくとも「ふたりのひとりしばい」はかしやま君の二作品、僕の二作品でやるべきだ、と僕は話した。彼も同じ気持ちだった。
口ではどれだけでも立派な事を言える。その段階で僕はほとほと途方に暮れていた。作りたいものが全くないばかりか、ものを作る事さえ億劫だったからだ。友人への追悼の念と、友人との思い出に浸っていたいばかりだった。
そんな中、田中さんとの会食は良い機会だったと思う。
今は無理に作品作りの事を考えずに気持ちが落ち着くのを待てば良いと思います、という彼女の話を聞きながら、もし何か作れるのだとしたらこの人とやりたいと漠然と思ったのだった。そういう田中さん自身、彼女の死に喪失感を感じているのは間違いがなかったし、それでいてそんな言葉を口に出来るのは本人も言っていたがそんな状態の僕に付き合うぞ、という覚悟の表れのように感じられたからだ。
実際、「もしも僕がバンドをやっていなかったら」制作チームは誰一人としておりる事をしなかった。僕が再起したら、再起せずとも尽力すると約束してくれた、実に優しい、思いやりに満ちた連中ばかりだったのだ。本当に感謝しています、有難う。
田中さんとの会食から三日後、母親が観ていた映画のワンシーン、それはセールスマンが取引先に頭を下げているシーンだったのだがそのシーンを何の気なしに眺めていたところ、突然作品のアイディアが降ってきた。こうして僕の表現活動は再開された。
「ふたりのひとりしばい」当日、会場はちょっとしたピリッとした空気というか心地良い緊張感に満ちていた。
前夜の筋肉痛を引きずって、それでも頭の冴えわたった僕はそれを無邪気に楽しんだ。
先陣を切ったのは孤独部「エアコン(再演)」。前評判は聞いていたけれども、確かに一見ピースフル。それでも自覚的にか(僕はこっちだと思うのだが)無自覚なのか、やはり樫山重光という男はどこまでいっても孤独なのであった。
自分自身をテーマに作品を作り上げるからこそ、毎回彼の様々な側面が見えてくるのだが今回はもう、その明確な孤独さを僕は存分に楽しんだ。本人に言っても飄々と交わされる気がするのだけれども、やっぱりあの人、ちょっと度を越しているよ。
二番手は僕側の番。未確認尾行物体で江戸川乱歩先生の「二廢人」をやった。
小池優作君という演劇人は実に面白い。まるでどこまでいっても満たされない憂鬱を抱えているようだ。彼の素晴らしさというのは自分の憂鬱と取っ組み合ってものを作り上げるところにある。そんな人とやる「二廢人」はさだめし面白いだろう。心に傷を負った人間と体に傷を負った人間の一見穏やかな会談から始まるあの素敵な小説をステージ上で再現。
大筋だけを頭に入れて、その場の空気に身を委ねながら台詞と演技を重ね合わせたのだけど、小池君の背中の演技、お客さんにもお楽しみ頂けたようで本当に良かった。本来なら僕が体に傷を負った側、彼が心に傷を負った側を演じるのが適材だった気もするのだが、今回は逆を試してみた。
そして音楽にはstudio penne。彼はもう僕の無茶ぶりを毎回きちんと意図まで汲み取って素晴らしいものを投げ返してくれるのだけど、今回も即興演奏という形で参加してくれた。諸々、制限がある中きっちりとヴィジョンを見据えて素敵に不穏な音楽を奏でてくれた。僕の第一声と共に彼のギターがジャラリンと鳴った瞬間、やはり僕もスイッチが入ったのだった。「間」を明確に打ち出したいこの作品の中で、それが意識を持ったものと演出されたのは彼の音楽に依るところが少なくはないだろう、と思う。
かしやましげみつ名義でかしやま君が臨んだ「drawing:」、今回この即興一人芝居を自分の枠の最後に持ってくるあたりそうなるだろうと確信していたのだけれども、彼女について触れていた。
パーソナルな部分、彼の背景が見える事に妙味の一つがあるであろう孤独部の作品群、その作り手のかしやま君自身が即興で紡ぎだす言葉なのだからそりゃあ威力は同じベクトルで、孤独部より強い。演出や演劇的要素が孤独部作品より削ぎ落とされている分、好みは分かれるのだろうけれどもよりソリッド。
パーソナリティという部分から発せられる言葉には会場中が息を飲んだ。
そりゃあね、先輩だもの。かしやま君もきっとあの報せを聞いてからずっとずっと考えていたはずなのだ。あまり言葉多くに語りはしなかったが、やっぱり君もそうか、そうくるのだなかしやましげみつ。
ステージ脇で、この日彼を対戦相手に選んだ事の必然性というか、因縁めいたものを感じてしまった。結局最後は同じテーマを題材に、個々の名前でぶつかる事になったわけだ。
「驚愕の”あ”」は恐らく一生涯忘れる事の出来ないアウトプット、自分の表現になるだろう。
恐らくそのままステージに立ったら弔辞めいた言葉を投げて終わっていたであろう心理状態の僕が、やっぱり作品にはポピュラリティがどうしても欲しくてギリギリまで粘った結果ストン!と生まれた作品だ。人生で初めてのフィクション作品。
大筋を提示した上で田中さんと即興芝居(エチュード、というんだったかな)めいた稽古で手応えを掴み、それでもまだお互いの長台詞やキャラクター設定はそれぞれが考えてきて当日ぶつけ合う、という制作方法をとったのだが、これはこの時の僕と田中さんだからうまくいったであろう事は間違いがない。恐らく、僕があれやこれやと考えている間田中さんも同じ位、いやひょっとしたらもっと自分の役柄について向き合っていたに違いない。即興なのにお互い言葉が淀みないばかりかスラスラと、まるでそこに脚本があるかのようにスムーズに芝居が進んでいった理由はそこにある気がしている。
田中さんとでなければ出来なかった、と断言出来る。田中みなさんとのあの即興演技の時間は実にかけがえのないものだった。前半のコメディ部分も僕は思いっきり瞬発力でやり、田中さんはそれを遮る事なく受け応え、後半の田中さんとのやりとりの最中はここ最近考えていた「自殺」というテーマについて自分の考えを端的に述べる事が出来たと思う。
今回痛感したのは表現による自浄作用、だ。僕の憂鬱は熟し、そして表現によって消化されたと言って良い。この作品によって僕は復活する事が出来た。
田中さん、貴方は本当に素晴らしい役者だ。この作品は貴方抜きでは出来なかったし、貴方とだから出来た作品だ。僕はそれが何よりも嬉しい。
貴方と演れて、本当に良かったです。
かしやま君との「ふたりのひとりしばい」は最終的に彼女の選択に対する僕達二人の回答を提示する事で終了した。
関わってくれた皆さん、ご心配をおかけしました。そして有難う。これから恩を返していきたいと思います。
そしてご来場頂いた皆様、第一夜は敬愛する先輩と、そして第二夜は立場こそ異なれど表現について探求する友人との全力の決闘、いかがだったでしょうか。
「サマーウォーズ、とでも名付けるかと思ったかね。」、本当にやって良かったです。有難う。
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