ここ最近日記を書けるような神状態ではなかった。
随分と日々の記録をつける事を怠ってしまっていたがようやくひと段落ついたので書ける範囲で無理のないように日記を書こうと思う。
11月15日(水)の早朝未明、父から「起きたら連絡下さい」とLINEが入っているのを起床して、見る。
時間にして早朝5時半。一瞬で目が覚め「絶対に良くない報せだ」と電話する前から確信してしまう。
電話するとすぐに父が出た。母親が深夜にトイレに行こうとベッドから降りたところ、転倒。
緊急搬送され、どうも頸椎を骨折しているようである。このまま付き添うのでまた進展があったら連絡すると教えられ電話が切れる。こりゃあ大変な事になったぞ、と思いつつ普段通りに身支度。
昼頃、会社の昼休憩中に電話。実は少し前に検査入院していた母、その検査結果を21日頃に聞きに行くはずだったのだが、そろそろその検査結果もわかろうという事で、それも併せて先生よりお話が父にされるであろう、との事。
仕事が終わり次第、実家に向かう事にする。不安だ。兎に角不安でしかない。
職場にいる間はいつも通りの日常でい続けられるので、職場から実家に帰るのがどうにも踏ん切りがつかない。かといって先延ばしにも出来ず、何だか絶妙にダラダラしてしまう。
実家に帰ると、父をはじめ兄一家が迎えてくれる。
「どうだった」という問いに対して父がスマホを取り出し「先生との会話を録音しておいた」と録音データを再生してくれる。
耳を傾けながらテーブルの上に置かれた病院からの資料を見やると、そこに母が病気である旨書かれていた。
やはり、そうか。だが録音された先生の説明や、医療従事者である甥の説明を聞くと随分と気持ちが落ち着く。
病名から受ける衝撃よりも実際には遥かに治る病気である事が理解出来た。
ただ、母の場合は首の骨折があるので少し大変そうだ。
いずれにしてもこの事態が少し長くなりそうである、と実感があった。
16日(木)はひとまずくよくよしてもしょうがない、と仕事に打ち込んだ。
こういう時に限って仕事は順調。
というか打ち込める仕事で良かった、と思う。少なくとも仕事に臨んでいる間は精神的に平静を保てる。
とはいえ、流石に色々とあったので思い直し、予定していた白線の内側のベース録音は延期して貰う事に。
動揺が過ぎる、流石に。
17日(金)、この日が激動であった。
11時過ぎ、仕事していると外線電話が鳴った。丁度たまたま電話機の近くにいたので受話器を取ると、何と義姉からである。
父から兄と僕に電話するように、そして僕の場合は職場に直接かけるようにと言われて電話してきれくれたらしい。
母の呼吸がどんどん弱くなっているので父親が緊急で病院に呼び出された、との事。
とんでもない報せに腰の力が抜けそうになる。続報が入り次第、職場にまた連絡してくれるとの事。
上司が気を利かせて一番最初に休憩に入らせてくれたので、電話からそのまま休憩みたいに流れに。
休憩も終わろうという頃に上司から呼び出し。懇意にして頂いているお客様が来られたとの事。
仕事があって良かった、と母が病院に運ばれた日に思ったが、この日は仕事を通じて沢山の素敵なお客様と出会って良かったと思った。この日は昼頃から3人程、お世話になっているお客様の来客で救われるものがあった。目の前のお客様にどう役立てるか、と考えていると落ち込みながらも活動的な気持ちになれるからだ。
仕事を終え、実家へ。病院の先生からの説明を再び録音したものを聞く。どうも呼吸停止→心停止が起きたとの事だが、心停止したのは数秒ですぐに心拍は戻ったという話。けれども原因がわからないのでそれについては検査等々していく、との事。
先生が会話中で「延命をどうするか」とか「何が舟橋さん(母)にとって良い事なのか」みたいな話をするから「何言ってやがるんだ、そういう話をするには早過ぎるだろう馬鹿野郎」という気持ちになる。父も兄も同じ気持ちだったと後々知った。
この日が割とどんぞこであった。いやはやどうしたものやら。
ICUにいる母を見舞う。兄が「おかん、頑張れよ!」と声をかけていた。眠っている母に声をひたすらにかけて、ああどうかまた母と楽しくお喋りさせてくれ、と願うような気持ちであった。
18日(土)は土曜日とはいえ、お客様との約束があったので午前中少し出勤。人の感情、しかもそれが自分に向いた赤の他人様からの温かい感情だとグッとくる。普段より滅茶苦茶効く。弱ってるなあ。
仕事を終え、母が入院してからというもの食事に関しては多分適当になりがちな父に何か差し入れしようと駅前のモスバーガーで買い出しをして実家へ。父を少しでも元気づけようと奮発して黒毛和牛バーガーを買う。2人分のセットで3000円くらいしたぞ、凄いな黒毛和牛。
食べていると父の携帯電話が鳴る。このタイミングで知らない番号からの着信は、心底クるものがある。予想通り病院の先生。
緊張した面持ちで耳を澄ませていると「母の意識が戻った」との事。呼吸についても安心しているので心停止以降、呼吸を助けるために施していた送管を抜く事を検討しているという話。
電話を聞きながら思わず踊り出してしまった。第一の吉報。
この後病院に来れるかと問われた父「30分後に行きます」。
父と兄と僕の3人で病院に行き、先生の説明を聞いた。録音を聞いてブン殴ってやろうかと思った先生がお話をして下さったのだけれども、先生ごめんなさい、そして有難うございます。
どうも薬の効果が良い形で出ているようで、諸々の数値も良い方向に向かっているとの事。嬉しさのあまり泣きそうになってしまった。そのまま3人で母のお見舞い。
夕方に妻と2人で再度、母のお見舞い。先程会った時から数時間しか経っていないが、送管がもう抜かれていた。
とはいえ呼吸を助ける機械は接続されており、意識は戻ったもののまだ話す事はままならない。それでも母と目線を合わせてお話出来るのは本当に嬉しかった。母、まだぼんやりとした状態なのかしきりに瞬きを繰り返している。
15分と制限時間付きの面会である。終えた後は実家に戻って一息。意識が戻った事で随分と前向きな気持ちになれた。
19日(日)は朝から妻と娘が出掛けたので、昼過ぎに実家へ。
父と母のお見舞いに行くと、看護師さんが「先程は呼びかけに応じてご自身の名前を言われましたよ」と教えてくれる。
凄いじゃん、とテンション上がって会いに行くと、流石に疲れたのか話すのは難しそうであったが、こちらが声をかけながら手を握ると返答代わりに握り返してくれるようになった。こちらの声が届いている事の、明確な証である。
血液検査の値もどんどん良くなっているとの事。
病院を後にして、父に付き合ってイオンへ。これまでは母が担当していたクレジットカード代の振込等々を父が頑張って代わりに行っている。仕事一徹、家の事はあまりしてこなかった父が悪戦苦闘している。思っている以上に対応しているのでこの人が凄い。とはいえ食事は割と適当にやっている感じがする。父は父で気を遣う人だから、同居している兄一家にそこまで世話にはなれまい、と食事に関して甘える事を辞去しているようだ。近々、手料理を振舞おうと計画中。
この日のイオンは妙に混んでいた。「何の行列だろうねえ」と長蛇の列を眺めながらアイスクリームを立って食べた。
夜は妻に付き合って松ぼっくり拾いに妻と娘と3人で行く。港区は稲永公園へ遥々出掛けてきた。暗い中なのでスマートホンの懐中電灯が頼りである。娘が思わぬ才能を発揮、次々と松ぼっくりを見つけていた。
帰りはチェーン店でラーメンを食べて帰宅。疲れた顔をしてしまっているのか、妻が気を遣ってくれているのがわかる。
申し訳なさと有難さと。
松ぼっくり拾い。動いた瞬間の娘と下を見ている妻が、物凄い写り方をしている。
そして今日20日(月)、母の容体が更なるポジティブな進展をみせた。
仕事を終え父からのLINEをチェックすると「母、話します」と。慌てて電話すると何でも「昨日までの様子が嘘のように話し始めた。流石に話しづらそうだし聞き取りづらいが」と父。
吉報!妻と2人で再びお見舞いに。娘はその間実家で父がみてくれていた。
母に会うと成程、口につけていた酸素吸入用のマスクも外れているし、随分と顔色も良い。
声をかけると小さい声で聞きとりづらいが話してくれた。あまりに何度も聞き返すと「もういいわ」と往年の母の口調で返されて思わず笑ってしまう。話をするとやはり意識がぼんやりとしていたようで、僕達が見舞いに来ていた事は認識出来ていたものの、日付と時間の感覚がおかしくなっているらしかった。ただやはり僕の知っている母の声で話す母に物凄く安心。
結構びっくりしちゃう速度での回復だ。母の体力に有難さを感じる。
帰りがけ、もう晩御飯時を過ぎていたので成城石井に寄って夕食を買い出し。友人が少し前に「今時はコンビニも値上がりしているので、成城石井で買い物しても同じくらいになるかひょっとしたら成城石井の方が安いくらい」と言っていたけれども、成程、確かにその通りだった。
娘が待つ実家へ戻り、そのままそこで買い出した夕食を食べる。兄一家も一階のリビングへ降りてきたのでそのまま団欒。
多分、皆安心していたのだ。甥が「これでまずはひと段落だね」と言った瞬間、空気が心地良く緩んだように感じた。
勿論まだ、油断はならないし治療はこれからである。けれども一時の事を思えば安心出来る状態になった。
そうやって、ようやくこうして日記を書けているというわけである。
僕という人間はいよいよ余裕がなくなるとアウトプットするとか何かを作るとかそういう機能は失ってしまうのだと知った。
出来る事、出来た事といえば食べたりゲームを漫然と遊んだり、兎にも角にも消化する事ばかりなのであった。
生産的なのは仕事ばかり。
もっと芸術に注ぎ込める人間で在りたかったなァと思う。そういう人間ではないのでしょうがないのだけれども。