母、舟橋玲子が亡くなった。
前日のライブ後、母の病状を話してあった鈴木実貴子さんからは帰りがけに「こんな大変な時に有難うね」と言われ「どうにか持ち直すと良いんだけどね」と話をしていたのだが。
珍しく飲酒して就寝後、明け方3時半頃、父からの電話で目が覚めた。『病院から緊急で呼び出されたので今から言ってくる』。父の声色で「このまま回復しない可能性が高いです」と言われていた母のその時がいよいよ近いのだと一瞬で理解出来たし、すぐさま兄からも着信があった。『来れるなら今すぐ病院に来なさい』。
電話で一瞬で目が覚めたものの、情けない事に飲酒して数時間なので車を運転する事が出来ない。妻を起こして病院まで送って貰った。行きの車の中でもう泣きそうな妻と「行きたくない、行きたくないなあ」と現実逃避をするものの、それでも母に付き添わないわけにはいかない。病院にはすぐに着いた。妻は自宅で娘が寝ているので一時、帰宅。
ICUの母の部屋に入ると父と兄がいた。
「呼吸レベルが著しく下がっている。血圧も良くない」と言われ、母に繋げられているモニターを見ると血圧が大変に低い。
ただ医療に疎い僕にはその血圧の数字よりも、明け方の4時過ぎに病院に僕達3人が集まっている事で母の容態が切迫しているという実感があった。
酸素マスクをつけて眠る母は、呼吸こそ苦しそう、というか機械の助けを借りないと呼吸もままならない様子であったが(機械の駆動音にあわせて上下する母の痩せた肩でそれが実感出来た)、この時間は今振り返れば妙に弛緩した時間だった。
「この数値は何だろうな」とか「あ、血圧が一瞬上がった」とか、舟橋家の男3人、妙に時間がゆったり流れるのであった。
ICUの先生(この日初めて見る女性のお医者さんだった)が「舟橋さん、容態が急変したらすぐに声をかけるから家族控室で少し休む?」と気を遣って下さった。まず兄と僕で控室に入り、病院内のコンビニで朝食を買い一息つく。コンビニがこんな時間に営業しているのか、と気になったのだがその時もう朝の7時半なのであった。時間がゆっくり流れるんだか、凄い勢いで流れるんだかいまいち感覚がおかしくなっている。
父がずっと母の傍について手を握っているので交代する。思えば、この時が母と過ごす最後の2人の時間だった。手をさすりながら言葉をかけ、返答がない事に落ち込む。かつては僕を庇護し、繋いで導いてくれたその手を握りながら今度は僕が母を励ましている。つくづく僕はマザコンなのであった。
父がすぐに帰ってくる。「あいつ(兄)と話しているとこっちまで泣いちゃうんだよね」と父。兄は母が緊急搬送される前の最後の会話について悔いを感じているらしく、それを父に吐露したそうだ。何て優しい人なんだろう。
こういうふとした瞬間瞬間が心に残っている。
家族控室で居眠りしてしまっていた。10時過ぎ、いつものお医者さんが看護師さんとやってくる。
現状説明をしてくれるのだが、僕は父から話を聞いているのと説明を録音した音声データもすでに聞いているので、悲痛な現実を再度突きつけられる思いだ。
説明が終わるか終わらないかの頃に兄のスマホに病室の父より着信。母の意識が戻ったとの事。
慌てて病室に戻ると母の目が開いている。酸素マスクの中では何かを伝えようと必死に口を動かしている様子があった。
機械のシューッシューッという駆動音で聞き取る事は出来なかったし、意識レベルも下がっているという母がその時の状況をどれだけ把握出来ているかもわからなかったけれど、その時間は家族の感情が一気に吹き出る時間であった。
あんなに号泣する父は生まれて初めて見た。祖父や祖母が亡くなった時も人前では涙を見せなかった父の涙を、僕は初めて見たのであった。
母の顔を撫でながら、感謝の気持ちを伝えた。程なくして、兄一家もやって来た。
僕が在るのは紛れもなく母のお陰だし、何度も道を踏み外しかけた(というと仰々しいかもしれないが、実感だ)僕が妻と結婚して娘が生まれて家庭を持つ事が出来、定職について社会の一員として前向きに生きる事が出来ているのは最終的には母や父に心配をかけまいと思い直したからである。
また、明らかに周りに迷惑をかけるタイプの子どもだった僕を母は否定せず、良いところを伸ばそうと誠意をもって接してくれていた。安心や嬉しさよりかは心配をかける事の方が多かったかもしれないけれども、特にここ数年ではその愛情に報いようと意識して行動していた。娘の存在がその至らない親孝行の中で大きな存在となっていたのは明らかだ。それでも足りない。全く足りない。
ICU付きの看護師さんが「ご家族で会わせてあげたい方がいらっしゃったら出来るだけ早く呼んであげてください」と声をかけて下さったので兄は自身の一家を、僕は妻と娘、そして叔父に連絡をした。その時が近いからだろう、ICUは15歳未満の入室は厳禁なのだが、短い時間なら娘も母に会って良い事になった。この日は娘の保育園の発表会。娘も妻も早起きしていたので「すぐに準備して行く」との事だった。
再び静かな時間に戻った。母はまた目を閉じ、機械の助けを借りながら呼吸を続けている。血圧は4時過ぎの時点よりも低くなっており、少しずつ母の体が弱っている事を誰もが実感した。
兄と家族控室で朝食をともにした時に「お前、今日の娘の発表会、行ってやれよ。こういうのは一生言われるぞ」と言われていたのだが(言い方こそぶっきらぼうだが、兄はきっと僕に迷わせないようにこういう言い方をしたのだ。心情的に、どうすべきか迷うに違いない状況はすぐそこになっていたのだから)、父も「こう言っちゃ良くないけど、この先がずっとあるんだから、行きなさい」と発表会に行くように背中を押してくれた。2人の後押しがなかったらきっと僕は判断に迷っていたに違いなかった。
父も兄も優しい。
妻と娘、そして叔父夫婦がやって来た。
弱り切った母に娘を合わせて、娘にショックを与えるのは良くないのではないかと議論になった。妻は母の励みになるだろうと娘を会わせたがったのだが、娘が病室内のただならぬ空気を感じて怖がったため、中に入るのはやめておいた。これも妻含め皆の、それぞれの優しい判断だったと思う。義姉と甥が娘を連れ出してくれたので、妻も母とゆっくり過ごす事が出来た。10年前は赤の他人だった妻が、母のためにボロボロ泣くのを見て人の縁、そして母と妻の人柄に感じ入った。母は「うちの息子達は2人とも素敵な方と結婚した」といつも嬉しそうにしていたし、妻の事を本当に可愛がってくれた。
娘の集合時間が近づいてきたので、母はじめ皆に声をかけ病院を出た。
娘は気合十分!この日は『浦島太郎』で乙姫役を演じるのと、楽器演奏でタンバリンを叩く予定であった。
12時の集合時間に間にあうように準備を整え、娘を保育園に送っていく。
娘が母の病とこの日の様子に何かを感じているかはわからなかったが、少なくとも発表会に臨む上で影響はなさそうに見受けられた。いつものようにお道化て、ニコニコ話す娘に僕も妻も救われた気持ちになるのであった。
12時30分、発表会開始。一番後ろの席ながらビデオカメラとスマートホンで動画を撮る。病院に戻ったら娘の雄姿を母に見せなければならない。目が開いておらずとも耳は聞こえるという。何かの励みになればと思っていた。
発表会が終わり、保育園を出、歩いていると兄から着信。
『孝裕。発表会終わったか。12時30分、おかんが亡くなった。俺も、立ち会えなかった』
タイミング的に、電話を出る前に悟ってはいたが、やはりショックだった。けれども不思議と感情の波は動かなかった。
驚く程静かな気持ちで電話を切り、横にいた妻に事実を伝え、娘と手を繋いで自宅へと向かった。
急ぐ必要こそもうなかったが、それでも病院にはすぐに戻らなければならなかった。
それにしても兄の電話の最後の一声は、母のその時に立ち会えなかった事への後悔の言葉か、それとも自分を責めようとしていた僕をすんでのところで引き戻そうとする気遣いの一言だったのか。僕は後者だと理解出来た。兄はやはり、優しい人なのだった。
12時30分、午後0時30分。丁度、孫の発表会が始まろうとする時間に旅立った母はきっと子ども達にその姿を見られたくなかったのだろう。父と叔父に見守られながら静かに旅立ったそうだ。
病室に到着して見た母の顔は、先程までと明確に違った。命がなくなるというのはこんなにも変わるものなんだな、と妙な気持ちになった。母は綺麗な人だったのに、目の前に眠る母の遺体は随分とイメージが違うのであった。
母のご遺体を斎場の方に迎えに来て貰い、自宅へと移動した。
斎場も立て込んでいるらしく、簡単な日時の打ち合わせをした後、細かい打ち合わせは20時過ぎに担当者が実家へやってきて下さる事となった。
父がお寺さんに電話をし、通夜のお願い等々をする。17時に実家へお寺さんが来て下さり、お経を上げて下さる事になった。
この辺りも時間の感覚があまりないのは、やはりそういう事なのだろう。
実はここまでほとんど涙を流していない自分が心配だった。涙を流さない事が、ではなく感情を無意識に押し殺してやいないか、ある時に突然一気に全てが瓦解して立ち直れなくなるのではないか、と。
リビングルームに飾られている母と父と孫の写真、そしてその横、書類等が立てかけられているケースの中にがん保険のパンフレットが差し込まれているのが見えた。仕事柄、保険を扱う僕が母の相談に乗り用意、手続きしたものだ。
「生きるためのがん保険」と書いてあるその表紙の文言を見た瞬間、遣る瀬無くなった。「生きるための」がん保険を使う間もなく母は亡くなった。頸椎骨折で緊急入院、悪性リンパ腫の診断が確定してから1か月だ。最初はがん治療をちゃんと行って(悪性リンパ腫は特に抗がん剤が効きやすい、と説明もあった)退院して、支えあいながら通院治療して「あの時は頑張ったねえ」と回復した母と笑いあうつもりだったのだ。父も兄も僕も妻も義姉も2人の甥もそのつもりだったのだ。きっと母も、会話こそしなかったが(入院中に満足に会話を出来たのはほんの一時だった)自分の病気を悟って、しかし闘うつもりだったに違いない。
それなのにあれよあれよという間に次から次に状態が悪くなって、あんまりだ。こんな事ってない。「生きるための」がん保険もがん治療自体が出来なかったのでは役に立たない。全く何て事だ。あんまりだ、こうなってしまっては糞の役にも立たないじゃないか。悔しくて遣る瀬無くて寂しくて、それまで感じていた色々な感情が一気に吹き出てきた。リビングルームでは皆が一息ついてるしどうしようもなく、洗面所で一人泣いた。妻が察して傍に来てくれた。妻も泣いた。
一人にして貰い、しばらく泣いた。リビングでは父が「孝裕どこ行った」。妻が僕とのやりとりを説明しながら「自分が用意したがん保険が役に立てなかったって泣いてます」。声の大きな父の「役に立つのはこれからじゃないか」という言葉が聞こえてきた。母は亡くなったが、父の支えにはなるはずだ。諸々の手続きはそういうのに明るい僕が引き受けようと改めて思った。
お寺さんが来てお経を上げて下さった。
お経の後に父とお寺さんが話をする。お寺さんも悪性リンパ腫を子どもの頃に経験したとの事。早期発見が出来たので治療に何年もかけて臨み、当時の医療でも奇跡的に治ったとの事。猶更、昨今の医療技術ならちゃんと治っただろうに、母の発見がもう少し早ければ、状況があの時変わらなければと悔いが残ってしょうがない。享年71歳、70年の生涯は短過ぎる。
様々な思いが胸にこみ上げてくるが、それでもこの時は直後に控えた母の通夜や告別式の準備や打ち合わせ、遠方から来る親族のホテルの手配等々で落ち込むどころではなかった。そういうよもやまの手続きや対応で気が紛れる部分が少なからずあった。
ホテルの予約に妻と出掛け、帰宅すると弁当が届いていた。
こんな時でも腹は減る。ガツガツ弁当を食べた。食べ過ぎて苦しくなる程だった。
20時30分から始まった斎場との打ち合わせは、結局2時間程もかかっただろうか。
家族葬で、しかし祭壇は父の希望で華やかなものを選んだ。これくらいはやってあげたい、という気持ちが明確で誰も異論を唱える事はなかった。
振り返って、こういう諸々の手続きを進めながら少しずつ母の死を受け入れていったのかもなあと思う。
翌日も朝が早い。皆、クタクタに疲れていたので帰宅後、すぐに就寝した。
母さん、長い間、本当にありがとう。
母さんの息子で僕は本当に良かったよ。