コンプレックスの正体。

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唐突に、本当に唐突になのだが自分の中の劣等感というか、焦燥感というか、コンプレックスとまではいかないにせよ卑屈な気持ちの正体に確信を持った。

以前もこのブログのエントリーに記したと記憶しているが、生まれながらにアーティスティックな存在、呼吸をするように感性の塊を放出する存在、存在自体が奇跡のようなバランスで成立している人間は、いる。確実にいる。

自己顕示欲が物凄く強い僕はそういう存在を賞賛したりしなかったりしつつも内心ねめあげるような視線を向けてしまう。こうして僕の日々を綴っていながらも、心のどこかでは瑞々しく嫌味なく、読む人間の心に残る文章を書き上げる彼女だったりあの人だったりを意識する。

歪んだ精神であるとまでは言わないにせよ、俗っぽい。非常に、めちゃくちゃに俗っぽい。俗っぽい人間だからこそそういう人間に憧れ、そういう人間の内面世界を欲し、それが叶わないとわかっているからそういう人間を欲するのだろう。しかし例えそういう人間が身近にいたとしても(いるにしても)僕はそれに感謝できない。その境遇を素直に評価できないのは、あれだ、「隣の芝生は青く見える」という事なのだ。

映画「アマデウス」ではモーツァルトの才能を理解する才能だけは有していた宮廷音楽家サリエリの苦悩と憤怒が、端正に丁寧に描かれているが僕はサリエリに共感をおぼえる。

自分の俗っぽい部分に忠実であったサリエリはモーツァルトを謀殺したが、ではサリエリ気取りの僕はどうするか。唐突に気付いた自分のコンプレックスの氷山の一角、それが明確になったと同時に僕は腹を括らざるを得なかった。

凡庸で、俗っぽい人間で何が悪いというのか。表現活動というのは生まれながらにして崇高で気高いものなのか。芸術、人の琴線に触れ記憶に残るのはそういう表現物ばかりなのか。否、そうではない。そんなはずではない。説得力を有する表現物は、するりと生まれる以外にも抽出方法はあるはずであり、それはつまり凡庸であり俗な人間にも可能なのだ。

凡庸万歳、俗であれ。
凡庸を舐めるな、凡庸であり続ける覚悟をした人間の気迫を打ち出してやる。凡庸な人間が凡庸な才能を駆使し、最大限に精神をすり減らして作り上げたものの力を見せてやる。
自分が凡庸であり俗であると確信し、同時にその現実を受容するのは少しの苦痛と苦渋が介在する事だけれども、同時に下手なプライドを捨ててなりふり構わず己を磨き上げる一ステップになり得るのだと感じた。

この気迫は全てのあらゆる才能に対して向けるべきで、代理戦争の呈を擁してきたけれども宣戦布告に等しいこのエントリーは僕にとって大いに意味がある事なのだ。若干誇大気味、強調され過ぎなきらいはあるけれども、書き初めと同じでぶちあげる事で生まれるものもある。やるぞ。

そんな事を考えた夜、大学時代に所属していたサークルの現役生諸君と長島まで温泉につかりに出掛けた。凡庸かつ俗な当ブログの主催者は、湯をつかりながら何を思ったか。

つくづく言語化しておかねば気がすまない性分なのだなあと苦笑したものである。

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