サイクリング

いよいよi GOツーマンシリーズ当日なわけなのだけれど、会場入りまで時間があるのでサイクリングに行ってきた。

サイクリングといっても大仰なものではない。僕のサイクリングは自宅からいってもせいぜい数キロの範囲に収まる。ゆっくりペダルを漕いで、あてどもなくハンドルをきって進むのだ。

幼い頃にガチャガチャをやりに通った文房具店や登下校に使った通学路、今や甥っ子が通っている小学校や毎夏父親と通ったものの、数年前に取り壊されてしまった市民プール、そしてその近くの模型屋等々、多くのノスタルジーを感じながら道を行く。

或いは今もそのまま残っているお店もあるし(模型屋は当時そのままに、ご店主も健在で続いていた。文房具屋の気難しそうなおじさんは髪の毛が白くなっていたけれど相変わらず気難しそうな顔だった。小学生よ、あのおじさんは顔は怖いけど優しい人だから安心すると良い)、今はもうなくなってしまったり外観が変わってしまった風景がそこにはある。仕事の関係上、日中なかなか自宅近隣を出歩く事はなくなってしまったけれども、たまにこうして近所をサイクリングするとまるでバック・トゥ・ザ・フューチャーみたいな気分になる。

昔と今で変わらない風景があるとすれば、それはこの街に暮らす人々だろう。公園で見られる親子連れやスーパーに買出しに行くおばあさん、そして道端で休憩する作業着の男性達。今も昔も変わらない当たり前になった風景、人でさえもサイクリング中にはたまらなく愛情を抱いてしまうから不思議だ。

思うに、サイクリングは僕にとって内省的な行為なのだろう。ノスタルジーをきっかけに、自分の内に内に深く潜っていく行為なのだ。思春期の頃から何か考え事をするとなると夜の散歩やサイクリングをしていたのだが、多分そういう事だ。過去を振り返りつつ、色々と思う所もあるようだ。

僕が思うに、過去を振り返って郷愁に浸るのは悪い事ではない。それどころか僕はこの行為を愛してやまない。

過去の自分が積み重ねたもの、構築したもの、破壊したものは紛れもなく現在の自分の礎になっているし、それらを眺めて考慮して、未知なる今後の自分に突きつけるというのは有意義な事だと考える。

僕はそれをずっと繰り返してきたしこれからもそうするだろう。何か悩んだり困難に直面した際に、何が一番自分を励ましてくれるかというと過去の自分に他ならないと、そう思うからだ。

僕にとって記憶喪失になるというのは全財産を失う事に等しいわけだ。

さて、良い運動になったしそろそろ今日の演奏に向けて最終調整でもしようと思う。

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