自分の駄目な部分、至らない箇所を思い知らされる事実又は思い知らされた体験は我々の精神に多大な苦痛をもたらす。それは忌むべき事実であり可能ならば忘却してしまいたい事柄だろう。
自分に不満がない、自分は自分に及第点を与えられる人間であると感じながら生きていける事程幸福な事はそうそうないのではないか。
だがそれができないからと言ってそれはそのまま=不幸な人間であると断じれるかと言われればそうではないのは明らかだ。
恐らく意識しようとしまいと、そういった自分の劣等感を刺激される体験は多かれ少なかれ誰でも思い当たる節はあるであろうから。
それはあるいは容姿、あるいは精神的な事柄、自己意識かもしれない。
容姿に関しては自分も思春期と呼べる頃合に体験した。鏡を見るのも億劫で、果たして自分の容姿に誇れる箇所が一ヶ所でもあるのかという戸惑い。このような見栄えでは人生という社交界に於いて誰にも見初められずに生涯を終える事になるのではないかという恐れ。
思春期の若者の自意識というものは青年期のそれとは比較対象にならない程の、それは別物であると認識して良い程の繊細さを誇る。異性からのからかい、他愛ない戯言、何の気なしの嘲笑が思春期の若者にもたらす作用、それは自意識の発展にトドメを刺す事である。それを乗り越える事こそが思春期の課題なのかもしれない。
精神的な部分、あるいは性格、あるいは才能に類する部分に関する自意識はこれはある者はその後もそれと向かい合わなければならない問題である(容姿に関しても同じ事が言えるだろうけれど)。この時思い知った苦渋は後の人間関係、人間関係の構築の仕方に対して絶大な影響を及ぼすのではあるまいか。
専門的な解析、解釈は専門家に譲るとして、ここで焦点を当てたいのは「では自分はどうだったのか」という事だ。
答えは明白。未だ発展途上である。日々失敗し(その失敗で味わう苦渋と言ったら!辛酸を極める)、反省し、補完しようと務め、また生きる。そうしていくより他がないと言うよりはそうする事以外の方法を知らない。思春期の頃と違うのは感情の卑屈な処理方法を知った事くらいだろうか。だがそれすらも情けない。
求心力のある人間でありたいものだ。
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