僕とNさん。

地下鉄の中で、一方的に懐かしい再会を果たした。

昔僕のカウンセリングを担当していた当時大学院生だった女性である。

中学、高校時代の僕というのは何かにつけてお腹を壊し、下していた。模試会場に向かうまで、試験の日の朝等等、日常では体験しない環境下に置かれる数時間前は必ずトイレに駆け込んでいた。

下痢便の匂いは、失意の匂いだ。僕は洋式便所(排泄自体にストレスを感じたくない僕は余力さえあれば洋式便所を選んでいた)に座ったまま、個室の中で自分の消化器官に失望を感じていた。

高校2年生の頃になると僕の内臓達はいよいよもって主人に反抗を試みる。革命家を気取ってか、それとも軟弱な精神の主を体現するつもりか、僕の消化器官達は僕の心の機微を如実に反映するようになったのだった。

通学時の人ごみ、苦手な球技をせねばならない体育の時間前、僕のお腹は以前にも増して激しい勢いで下るようになったのだった。

駅のトイレでの排泄を見越して家を出、そして乗り換えの駅でトイレに駆け込む。

毎週木曜3時間目の体育の前の時間を担当する数学教師は、優しさと慈愛をもって僕に許可をくれた。

すなわち「先生、トイレ行ってきていいですか」という許可を得る事なく、便意を感じたら勝手にフラフラと教室を出て行っていいという許可。集団生活によって規律を守る尊さを学ぶという主旨を内包した学校生活に於いて、この免罪符が教師から発行される事がどれ程僕の便意が定期的、かつ僕にしてみれば絶望的なものが象徴しているように思う。思えば、恐らくあの温厚にしてシニカル、生徒思いの数学教師は僕の自律神経及び消化器官がどのような状態にあるのか薄々察していたのではないだろうか。

ふとした折、TVで『過敏性腸症候群』という病気がある事を知った。詳しくはwikipediaを参照するとして、簡単にいえば「大腸の運動及び分泌機能の異常で起こる病気」であり、ストレスや不安を感じると下痢を引き起こす「慢性下痢型」は僕の状態そのものに思われた。

ある日の数学の時間、排泄を済ませ、失意が充満する個室の中で一息ついて教室に戻ると、何かの間違いかそれとも学友のほんのいたずら心か、授業の進行を妨げたり人目についたりしないように僕が出入りに使用していた教室後方のドアが内側から施錠されている。

もう、駄目だ。

その頃には自分の消化器官にほとほと失望していたし、何より「また下痢するのではないか」という不安から僕は朝の人混みや緊張を強いられる環境へ臆病になっていた。ストレスが引き起こす症状によって更に精神的にも影響を感じていたのでは、どこまでも奈落に落ちる他あるまい。負の連鎖を止めねばならぬ。

保健室の養護教諭に相談、かかりつけの内科医に診て貰う。

TVで観た過敏性腸症候群。予想通り、僕がまさにそれだった。

「副交感神経がストレスを関知すると消化器官に過剰に『消化しろ』という命令を送る。これによって引き起こされるのだ云々」という説明を受け、ストレスを感じた際に副交感神経の異常な動きを抑える錠剤を貰った。

しばらくはこの薬の効果か、あるいは「飲んだから大丈夫」というプラシーボ効果からか症状は和らいだように思う。しかして根本的な解決をせねばならない。

大学に入学すれば環境は更に変わる。学友達も散り散りとなり、新しい人間関係を構築せねばならないだろう。アルバイトも始めるだろうし、それら自分の行く末を考えると根本的な治療が必要なように思われた。

高校3年生の春から、A学院大学の心理臨床相談室という施設に通う事になった。A学院大学の心理学部が校内に置いている機関で、大学院の院生が教授の指導のもと、研究も兼ねてカウンセリングを担当するかわりに、相談料が極めて安)というシステムになっている。A学院大学の心理学部に興味のあった僕は、毎週土曜の午前、50分のカウンセリングを受ける事になったのである。

「カウンセラーの性別に希望はありますか」

電話で予約をとる際に確認される。成る程、その辺りを気にする相談者もいるだろう。僕はどちらでも構わない旨を告げた。

まさかの女性が担当だった。

カウンセリング・ルームに入ってきたのはまごう事なき大学院生、しかも清楚な雰囲気を称えた誠実そうな、綺麗なお姉さんである。

毎週50分間、そんな大学院生のお姉さんと密室で話をするだなんて高校3年生、しかも引っ込み思案で半ば自分は駄目人間だと感じているような少年には刺激的過ぎる。良い意味で緊張した。

しかしその女性、N女史としておこうか、N女史は実に丁寧に丁寧に、毎週僕の話を聞き、記録をつけたのである。心理学というのに興味を持っており、半ば相談する側として全力で楽しんでやろうと思っていた僕はN女史、そして心理臨床相談室からすれば実に厄介な来談者だっただろう。

ある日の一幕。

「ロールシャッハ・テストってあるじゃないですか」

「あるね」

「興味深いのです」

「やってみる?」

「是非」

マニアに毛が生えたような知識しかない来談者、というのはつくづく厄介だという良い例になったのではないだろうか。とまれ、N女史と僕の時間は実に高校卒業間近まで毎週土曜午前中の50分、律儀に続けられたのである。

N女史からすれば僕というのは初めて担当する来談者なわけで、自分の研究の事もあって相応に印象深いのではないかと思う。

けれども今まで何度か地下鉄の中でN女史を見かけても、僕は声をかけないようにしている。

向こうも気を遣うだろうし、僕もどんな顔をしてどんな具合に声をかけていいのか戸惑ってしまうのだ。

N女史は今心理学に関係する職に就いてらっしゃるのだろうか。僕を研究材料として、その後どうなったか興味深いのだけれども、僕はといえばN女史から最後のカウンセリングの際にプレゼントされた、僕のロールシャッハ・テストの問診票を眺めるばかりである。

Nさん、「大学で心理学を勉強したら是非これを自分で読み解いてみて」と仰いましたが、僕は今大学で勉強した心理学を全く活かさないばかりか、残った知識といえば鼠をアルコール中毒にするメカニズムについて、程度です。

でも今の僕が多少のストレスでもお腹を壊さずに元気にやっていられるのは間違いなくNさんのお陰なのでしょう。感謝しています。

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