僕は恐ろしい。

ここで、一人の人間の生前と死後の顔を撮影した写真が11人分閲覧できる。
しっかりとコンセプトをもって撮影したらしく、その人がどのような人生を歩んだのか、どのような病に冒されているのか、そして撮影当時の心境等が記述されている。

ただ目を閉じて横たわっているような死者もいれば、むしろ死後の方が穏やかな表情をしている死者もいる。
この特殊な写真集を僕は初めは単純なる好奇心から見、次第に切なさと無常さを感じ、そして遂には恐怖を感じるようになった。

写真そのもの、にではない。
「死」そのものだ。

世の中には確実な事なんてほとんどないのに「死」だけは確実に、今こうしてタイピングしているこの瞬間にも、確実に僕に向かってきているのだ。否、何をしようと、何もせずとも僕は「死」に向かって近づいていっている。
自分の死の瞬間だけは知りたくはない。もし自分がどのような死因でいつ死ぬか知ってしまったら、それが例え50年以上先の事でも僕の気力はそれを認識した瞬間に挫けてしまうだろう。余命宣告も僕はいらない。余命宣告を「余命を有意義に生きるための宣告」と捉えれる程僕は強くはない。僕は自分の死について死ぬ瞬間まで無頓着でありたいと思う。

同時に恐ろしいのは、何も「死」に向かっているのが僕だけではないという事だ。僕の周りの人間も恐らくは等しく「死」に向かって邁進している。
家族、友人、皆死ぬ。いずれは必ず死ぬ。絶対に死ぬのだ。
その事実は最早常識である。分別ある成人ならばその事は許容し、受け入れているはずだ。
だが僕は許せない。頼む、土下座でも何でもするから死なせないでくれ。いや、死なせないでくれとまでは言わない、僕が生きている間は死なせないでくれせめて僕が死んだ後に先延ばしにして、彼らがいなくなる現実を僕は知らぬままにして欲しい等と手前勝手な事まで考えてしまう。それほど恐ろしい。
ファザコンと僕が自認せざるを得ない程程崇拝している父親、当たり前のように寄り添い、そして幼い頃から僕の育成に全精力を傾け、今なお磨きをかけてくれる母親、無愛想ながらも男としての行き方の一つを身をもって提示してくれた兄、そして兄と幸せな家庭を築き僕の理想の家族像を体言している義姉と甥っ子達。
ああそして友人達。羅列しだしたらきりがない友人達。

頼むから死ぬな。一生死ぬな。
死は恐ろしい。諦念をもって見つめる事しかできないのだろうけれども。

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