いよいよ今週末に控えた資格試験の勉強の合間に映画を観る。
時間的にはどっちがどっちの合間なのかはわからない配分になりかねないけども(映画、二時間だし)、精神的に中心に据えているのはどちらなのか、が問題だと思う。
課長はブラクユーモアを介する人なので(余談だけれども夏に転職して、またしても上司や先輩、同僚に恵まれたなあと思っている。誠実な人達と働くのはとかく自分が新参だと本当に有難い)「落ちたら馬鹿だぞ!」と励まして下さるし課長の上司も合格祈願にキットカットを下さった。今、職場では受験生に向けてキットカットを売っている。合格祈願の特別仕様。
一緒に受験する後輩と「プレッシャーに感じちゃうね」と笑いながら、試験までいよいよあと数日。兎にも角にも過去問をひたすらに繰り返し繰り返し解いている。論述問題は計算も含むもので、その総合的な知識を要求する難易度に一瞬絶句しかけたけれども親切にも試験範囲が提示されているのでちょっと土曜日、踏ん張ってみようと思っている。
正義や信念について考える。
僕は昔から半ば無意識に多数派を嫌ってきた。小学校のクラスでも、中学校のクラスでも、高校のクラスは多様化が進んでいたので違ったかな、大学のサークルでも僕は多数派というか主流派を声高にではないにしても内心嫌ってきた。
どこでもその集団に馴染めない少数と肩を並べてきたわけなのだけれども、ではそれは一体何故かと思い返したわけだ。
その思索の果てが「何故アンパンマンが嫌いなのか」に至った瞬間、嫌いなのは盲目的に集団の正義を振りかざす行為だ、と気づいた。
異端を排除しようとするクラスメートを眺めて異端に惹かれたのではなく、当時流行していた音楽を「皆が愛するから」という動機で愛する発想が嫌いなのではなく、そのどこか根拠のない行為に薄ら寒いものを感じていたのだと思う。
と同時に僕はきっとそれを嫌悪する自分の根拠のなさにも気づいていた。多数派が嫌い、だなんて多数派である事よりももっと恥ずかしいというか、なんというか。
けれども何となく絶対的な正義という概念と信念の取り合わせってやっぱり違和感を感じてしまう。
絶対的な正義という概念に違和感を感じるのではなく、それを絶対的なものだと認識しないまま盲目的に信仰し、信念だとしてしまう事に、である。
けれどもやっぱり言葉にすると途端に寒々しくなるね、こういう話って。そういうのを論じちゃう自分が一番寒々しいと感じています、今。
日陰者って言葉は便利だね。
色々なものを肯定してしまう。
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