手を動かせ、そして足を使え。

「世界がどのように回っているか、を貴方がどう考えているかを提示出来るものが演劇である」という一つの定義は至極しっくりときた、僕にとって。思えば僕はずっとそんな風に、その時々の自分の考え方を自分が作るものに織り込んできたのだった。
演劇とは何か、いや、そもそも自分にとって表現行動とは一体何なのかという事については今一度改めて考えてみるのも思考ゲームじゃあないけれど、面白い事だった。

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「表現欲求を元手に表現活動をしていればアーティストなのか」。
アーティスト、という言葉に何よりも先にまずある種の胡散臭さを感じるという事は、僕がその言葉に特別な何かを感じている/感じたいという事の証明になるだろう。つまりアーティストという肩書(別にここはなんでもいいだろう、ミュージシャンでもいいしクリエイターでもいいだろう)だけの、それ「だけの」人間は沢山いる、という風に感じる事が少なくなかったという事だ。
本来は敬称のように使いたい言葉ではあるはずなのだけれども、言葉の持つ意味さえ変質して僕の中に落ち着いているという事はそうでもない実例を相応に見たという、つまりこれは無意識から出てきた拒絶反応なのではないかという事。
僕?僕は自分を特別な何かだと思ってはいない。はっきり言ってしまえば謙遜でもなんでもなく、能力値で人間を均一化して比較するのであれば秀でているものなんてないと思うよ。あ、でも少しだけ他人より行動力があるのではないか、と思っている。
兎に角、積み上げてきただけである。面白い事をやってきた、やっているという自負だけは、ある。いやこれは気概かもしれないけれど。
僕がどういう存在なのかは僕が定義する事ではないのではないか、と言ってしまうとこれは巧妙な、或いはそうでもない逃げ口上のようかもしれないけれども、結局そういうのって他人がどう思っているかで、僕自身のやる事は変わらなかったりする。
ただただ面白い人間で在りたいな、とは毎日のように思っているけれども。
大変話が逸れた。なんにしても樫山君が行った「えんげきけんきゅうかい」は参加して良かったと思う。想像していた演劇の研究会とは違ったけれども、良い機会になった。
あと正午過ぎから行われたこのイベント、地下にあるお店から出た時の外の明るさが何だか妙に得した気分になって、あの瞬間の多幸感ったらなかった。

この週末は楽しく頭を動かす時間も多かったけれども、同時にベースギターをよく弾いた週末でもあった。
土曜はMoNoSiRo練、日曜日はかつてはMoNoSiRoでドラムをたたいていたコジマ君と二人で3月頭にあるサポート活動のためのスタジオ練習。
毎晩のようにシコシコと家でベースギターを弾いているのだけど、やはり録音データにあわせての演奏よりも生ドラムとのアンサンブルの方が自分の中に落とし込める情報量が圧倒的に多い。やっぱり手を動かさないと、というと家での練習は何なのだとなるけれども、やっぱりバンド演奏のための練習だもの、完全に自分の中に落とし込むのは合奏で、となるのは自然な事だとも思う。しかし彼がMoNoSiRoを去って以来久しぶりに一緒に演奏したけれども、何だか以前の彼よりもマッチョな出音になっていて大変具合が良かった。忙しいようでドラムを叩きまくる、って時間を最近はなかなかとれないでいるらしいのだけれども、流石。

kaleyyyyyyy
練習が終わった後、梶藤君(26時)の家へ。
前夜に彼がSNSにアップロードしていた手作りカレーの画像を見てどうしても食べたくなり、夜中にも関わらず彼の好意に甘えたというわけである。
「特に変わった事はやっていませんよ」という彼の手作りカレーは果たして、物凄く旨かった。
ジャガイモってカレーライスに於いてはポピュラーな具材じゃないか、それこそ存在感でいったらバンドアンサンブルの中に於けるバスドラムくらい当たり前に自然とそこに在る。
梶藤君のカレーはジャガイモのサックリホッコリした食感、そしてきっちりと「大地の味」を感じさせる後味といいジャガイモの存在感が丁寧に演出されていた。煮込む時間も、皮の剥き方も考えがあっての調理との事。お見事。カレーライスを食べて「肉嬉しいなあ」とか「ルーが秀逸!」となる事はあっても「ジャガイモって旨いんだな」という感想を抱いたのは初めて。勿論ルーも旨かったし、ばら肉の方に投入された挽肉も良い仕事していた=旨かった、けれどもジャガイモをジャガイモとしてきっちりアンサンブルの中で活かした、という事実がひどくインパクトがあって、そしてそれがとても食べ応えのある一杯の一因として機能していた。
大変おいしゅうございました。
カレーを食べた後、差し向かいでの話も大変面白かったし有意義だった。
一日の決着のつけ方としてはとても充実した時間だった。

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