折角明日の夜から東京へ向かうってんで、ライブハウス近くの美味しいラーメン屋でも調べてみようとインターネットを駆使してみたんよ。そしたら僕の好きな餌みたいなラーメンを食べさせてくれるお店が、ない。あってもライブハウスから少し距離があったり、そりゃあ歩いて行けない事はないのだろうけれども知らない土地を目的地目指して歩き回るっていうのは物凄く不安で煩わしい事だ。だから当日その時その場所のインスピレーションで飯を入れる事にした。
これは勿論生まれ育った土地(愛知県は名古屋の歓楽街。お世辞にも治安が良いとは言えない場所、らしい。生まれ育った身からすると何て事はないのだけれども)柄ってわけじゃあないのだろうけど、東京という街には気後れするところがある。お洒落でクリエイティブで、活力に満ちた場所だ。
東京のそんな華やかさを肌で感じたのは中学生の頃の修学旅行、と言いたいところだが何かの凄さを知るには当時の僕はまだ無自覚過ぎた。自分という人間をある程度客観視する事すらままならぬ中学生の僕では、自分の存在と比較、或いは拡大解釈して『東京』というこの国の首都を捉える事が出来なかったのだ。
では一体いつ僕は『東京』を意識するようになったかというとそれは大学4年の頃である。当時ちょっと仲良くしていた女性が就職活動で東京へ行くという。関係を深めたいと思っていた僕は単身東京へ乗り込む事への不安に付け込んで、見事に同行する許可を勝ち取ったのであった。
今思えば甚だ迷惑であっただろう事は想像に難くない。何せ僕といったら就職活動もせずに大学へフラリと現れては部室に引きこもるか、後輩や先輩を無理やりひっ捕らえて大学から遊びにくり出すというような事ばかりしていたのだ。仮に面接等で「あなたは大学4年間で何をやってきましたか」と問われれば「はい、よく食べ、よく遊び、よく眠る事です」と応えただろう。云わば堕落した学生生活に他ならなかったわけで、目的意識のしっかりとしたその女性からすれば僕は本当に『大学4年生』に適応できていなかったであろう。
話が随分と逸れてきた。兎に角、僕はそのタイミングを利用して御茶ノ水や渋谷、下北沢等様々な場所を散策した。たかだが一日、さして沢山場所が回れるわけもなく、しかしてそれ故に僕の東京への印象は鮮烈なものになったのかもしれない。あれは紛れもなく『非日常』であった。
毎日毎日繰り返し、ループの中にいる僕からすれば東京や大阪、つまりは日常生活の範疇外へ赴くというのはそのまま『非日常』である。大学を出、バンドを始めるようになってからもその思いは変わらず未だに東京へ行くと強烈にエネルギッシュな気配に若干の興奮を覚える。そしてそれは東京で交流を深める事となった沢山の興味深く、刺激的で活力に満ちた人間達との出会いによって更に強化されている。
勿論名古屋コンプレックスとでも名づけられるような自虐的思考があるわけではない。僕は名古屋という土地柄には妄執というか、変質的な愛情すら抱いているのである。では何故かくも東京という街に固執するかというと前述した通り『東京』が僕の中で『非日常』とリンクしているからである。
『東京』に対する憧れや好意、そして妬み嫉みはそのまま『非日常』へのそれと言い換える事ができる。
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