桜の木の下には屍体が埋まっている、というのはよく聞くけれども、少し気になって調べてみたら民俗学者 柳田國男の「桜という地名がつく場所は死体置き場だった」という一説に由来しているのではないか、という説もあるそうだ。もしそれが正しいならば、名古屋には僕の家から程近い辺りにその名に「桜」の文字を燦然と輝かせる地名が思いつくだけでも2,3あるわけでこれは大変な事になる。論旨が前後するけれどももし桜の木の下に屍体が埋まっているならば僕の家の近所の桜並木は途方もない事になる。
で、桜の木の下には~を爆発的に広めたという梶井基次郎『桜の樹の下には 』を読んでみた。
何の予備知識もなく読んでみたのだけれども、語り部が美しいものに対して抱く違和感、不快感というのは恐らく美しいもの自身にではなく、自分自身の中に醜さを見出してしまうからこそのものなのだろう。美しいものを美しい、と認める事は出来れどもそれをそのまま評価するには語り部はその前に自分自身の劣等感に打ち勝たねばならないのだろう。或いは物凄く負の方向に自意識過剰で、かつ陰惨な精神構造ではあれども「俺には惨劇が必要なんだ」と嘯く語り部のその感性、超越した美しいものに対峙した際に少なくとも自分の中で陰惨なもの、憂鬱を構築して均衡を保たねばならない感性というのは誤解を恐れずに言ってしまえば物凄く共感出来る。
というのも、僕も美しい芸術表現を目の前にしてまずは自分自身を省みてしまう性質の人間であるから。この感覚というのは劣等感や自らの凡庸さを抱え、そしてそれを嘆いた人間だからこそ、であるとも思う。
「桜の樹の下に屍体が埋まっている」と妄信するのは、とても良い、もう文句の付けようのない音楽を演るバンドのライブを観た後、楽屋での姿を見てそこに一般的バランス感覚の欠如を見出したり(そこに更に魅力を感じてしまうのはある意味では不幸ではあれど、自分という人間のモチベーションを客観的に見ると少なくとも僕にとっては幸運ではあった)するのに同義であると解釈した。
その結果、これがもうね、物凄く腑に落ちてしまったんだな。
だって僕はさ、「無自覚かつバランス感覚のない天才」と「自覚的でかつ反骨精神に満ちた凡庸な人間」の代理戦争をバンド内でやろうとして、何であればその劣等感の裏返し、時としてバンドメンバーにすら向けられる健全なる劣等感、健やかな反骨精神をモチベーション、原動力として3つもバンドをやっているのだ。
才能溢れる美しい、生まれながらの才人、ナチュラル・ボーン・アーティストは人間的にどこか欠落がないと「困る」のだ。素晴らしい絵画を描く人間は精神的にどこかしら鬱屈したものを抱いていて欲しいし、素晴らしい曲を書く人間は人間関係の構築が極端に下手だったりして欲しい。稀代の名役者がアルコール中毒であるのも素敵だし、素晴らしい扇動者が女性関係にだらしがないのもいいな。まあ、とにかく、その、なんだ、そういう「幻想」を抱かせてくれる対象でなければ困る。
もし才能溢れる人間が身近にいたとして、そこに完璧なる「才能」の他に完璧なる「人間性」を見出してしまった日には僕のような人間は全く完全に完膚なきまでに浮かばれないのだ。
僕も桜の樹の下に屍体を「見出したい」人間だ。
そんな自分自身を俯瞰的に眺められるようになってからは本当に楽になったけれども。
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