母の通夜終わりで斎場に泊まったので、親族控室で目を覚ました。
朝7時に目覚まし時計代わりにスマホのアラームを設定したものの、起きて少しはベッド代わりのソファの上でうだうだしてしまった。そのうち隣室で布団を敷いて眠っていた甥っ子が起きだしてきて、洗面所で顔を洗っている気配が伝わってきた。
そろそろ起き出すか、という頃になると7時15分を過ぎていた。スマートホンに妻から着信。ホテル宿泊組はもう動き出している様子である。集合時間が8時だから、早めに斎場に入って朝食を買い出しに行くつもりなのだろう。
親族控室に備え付の風呂が自宅の風呂より豪華なのは母親の通夜の日の日記でも書いたけれども、なんだかんだで長風呂する事は前夜もなかった。折角の豪華な風呂なので温冷交互浴を楽しんでも良かっただろうに、やはりすぐに就寝してしまったのは疲れていたからだろうか。朝は熱めのお湯に浸かりたい派なので湯船にお湯を張る事にした。
そういえばシェーバーを持ってきていない。実家から出る際に父から譲って貰ったシェーバーを未だに愛用しているのだが、それを使って髭を剃るようになってから髭の毛質が変わり、もうシェーバーを使わないと髭剃りにてこずるようになってしまっていた。斎場から供されたアメニティセットの中に安全カミソリが入っていたので、浴室でボディソープをたっぷり顔に塗り髭剃りを試みる。やはり引っかかって思うように剃る事が出来ない。安全カミソリは苦手だ。それでも気をつけながら、最低限は髭剃りを済ませた。
風呂から上がって洗面所で着替えていると親族控室にホテル組が到着した気配があった。程なくして妻が甥に「孝裕君いる?」と訊いている声が聞こえた。ナイスタイミング、妻!
妻にお願いして喪服を洗面所内に送り込んで貰う。喪服を着て身だしなみを整えて、式場に母の顔を見に行った。
前夜と比べると少し口が開いてしまっているような、そんな感じがあった。あと肌の質感等がどことなく『ご遺体感』が進んでいるような感じがあり、母の肉体しかここには残っておらず、中身(魂、というのが一番適切だろうか。精神とか意識とかそういう母を母たらしめるものである)がもうここではない場所に在る事を実感して切ない気持ちになった。
月曜の朝という事で、勤務先の人達が職場に到着するであろう時間帯を見計らって色々と電話をかける。
告別式の翌日は父親と区役所等行く予定なのでもう一日休みが欲しい旨を伝えると、何なら5日間は休んで良いとの事。流石にそこまで休むのも気が引けるし、早いうちに会社に復帰しておいた方が精神的にも慰めになるであろうと思われたので、当初の予定通り告別式の翌々日から仕事に復帰する事にした。
告別式前、母の棺桶に入れる家族からのメッセージカードを書いた。
父も兄も書いていたが、お互いに見せ合うような事はなかった。お互いに気恥しいし、そこはそれぞれ個人の感情でという事だろう。
書き始める前こそ何を書くべきか迷ったけれども、ボールペンでカードに書き始めると思った以上に言葉が出てきた。というか書き過ぎて表面だけでは収まらず、(裏へ)という表記を用いて裏面一杯になるまで書いてしまった。書き上がったタイミングで妻が近くにいたので見せてあげた。きっと妻は僕がどんな事を書いたのか気になっていただろうし、妻に内容を知ってもらう事が悪い事ではないように思えたからだ。
母さんが喜んでくれると良いな、と思う。
告別式は前夜の通夜のようにDVD上映等もなく、お経を上げてお焼香をして、と粛々と進んでいった。
けれどもこれまで何度か出席した告別式の経験から、母の肉体に別れを告げる最後のチャンスがもうすぐそこである事は理解している。もう母の顔をこの目で眼前に見る事も出来なくなるし、母に触れる事も出来なくなるのだ。
棺桶を開いて、先程書いたメッセージカードを装束の胸元に差し込み、祭壇の花を詰めていった。娘は当初こそ照れて母に近づこうとしなかったけれども「これでばぁばのお顔に会えるのも最後だよ」と伝えるとお花を入れながら「ありがとう」と言っていた。娘は大きくなった時に母との思い出を鮮明に思い出すだろうか。一緒に旅行に行くとかそういう事はなかったけれども、幼い頃の日常に色濃く関わった(僕と妻がお迎えに行けない時は母と父が保育園に娘を迎えに行っていた。最低でも1週間に1度以上そういう機会があった)祖母との思い出をどのように思い出すのだろうか。
旅先で喉が渇かないように、という配慮だろうか、葉っぱをお水で湿らせて母の唇にあてる営みを皆で行った。
叔父がこらえきれずに泣きながら「ありがとう」と言うと、皆こらえていたものが噴き出したのか一様に泣いてしまった。僕はというと不思議な気持ちであった。泣いている父や義姉、親族一同の姿を見ながら「母は多くの人に愛されて幸せだったな」と誇らしい気持ちと嬉しい気持ち、そして母への感謝で満たされていた。自分が愛する母親は、そして自分を愛してくれた母親は皆に愛されて惜しまれつつ旅立つのだ。
皆が泣き崩れては母はきっと申し訳なく思うところも少なからずあるだろうし、僕みたいなのがいても良いんじゃないだろうかと思ったのだ。兄も涙腺こそ開いていたけれども、落ち着いた様子だった。きっと兄も僕と同じ感情ではないだろうけれども、感じる部分があったのだと思う。
棺桶の蓋を皆で閉めた。
そのまま出棺となり、霊柩車を先頭に八事霊園の火葬場まで向かった。平安会館今池斎場から八事霊園は、今回環状線を通って大久手の交差点で飯田街道に入り、そのまま八事まで向かった。高校時代から30歳頃までの僕が過ごしたエリアを通る事で、当時の日常の中の母との様々な瞬間を思い出した。もう思い切り僕の事を心配している母の顔ばかりだったけれど。
僕は骨壺を胸に抱きながら、妻が運転する自家用車で八事霊園へ向かった。娘と広島の叔母、叔父が乗り、主に娘がはしゃいで車内の空気は決して重たくも暗くもなかった。お葬式という儀式の、各行事ごとの間の隙間の時間に流れるゆったりとした空気感がここでも場に漂っていた。
八事霊園に到着すると、全員で母を見送り。
母のご遺体が焼き終わるまでおおむね1時間半かかるという事で皆で休憩室に移動した。飲み物に軽食も頼めるという事だったが、皆が持ち込んでくれたお供え物や手土産の饅頭がここで供された。皆が雑談する様を、娘を膝の上に乗せて見守っていたら気づいたら居眠りしてしまっていた。館内放送で母のご遺体を焼き終えた事が知らされる。皆で焼き場に移動。
骨だけになった母を見た最初の感想は「結構骨太な人だったんだな」というもの。何とも間抜けな感想だけれども、実際母の骨は太かった。痩せていたので骨も細くて薄いのかと勝手に思っていたのだが。
兄と骨を骨壺に納めた。喉仏の骨も納めて、無事終了。娘には「ばぁばは煙に乗ってお空に上がったんだよ」とお話した。
再び平安会館今池斎場へ戻ると、初七日の法要を行った。
母の遺影に母の骨が入った骨壺、そして喉仏の骨が納められた祠のようなモニュメントを並べてそれに向かってお経をあげて貰い、お参りをする。
仏様にもひょっとしたら母にも無礼な事なのかもしれないけれども、お経を聞きながらぼんやりとこの数日間の事や、母が急遽入院してからの闘病生活の事を考えた。闘病生活、といったものの僅か一か月。こんなに早くお別れが来る事になろうとは思わなかった。これから長引くであろう母の癌治療に向かって一緒に頑張ろうと腹に力こそ入れていたが、母との別れに心の準備はしていなかった。兄の世帯と父の世帯で一緒に建て直した我が実家、夫婦で暮らしていた一階で、これから父は一人の時間を多く過ごす事となる。勿論中で二階の兄の世帯と繋がっているので実質一人暮らしではないし、何なら食事も義姉の料理を食べさせて貰っているようなのだが、それでも父の喪失感たるや計り知れないものがある。50年近く連れ添った夫婦なのだ。
これから、これまで以上に実家に帰る機会を増やすようにしようと漠然と考えた。
3階に上がって料理を食べる。
所謂精進落としなので肉も魚もガンガン出た。親族はビールも飲んでいた。和やかな昼食の席ではあったが、最後の挨拶で父の涙腺が開いて母を失った事への喪失感を一同、噛み締めるのであった。母は親族を直接まとめるような役回りではなかったが、精神的に皆の鎹役になっていたのだなと感じる瞬間が多々あった。母の人望あってこそ、だろう。
落ち着いた頃に、それぞれの親族に改めて挨拶に行って、母への喪失感を宙ぶらりんにならないように実の子として受け止めよう。おこがましいかもしれないけれども、性格的に外にどんどん出ていくのは僕の役目なんじゃないかとそんな風に思っている。
想像以上にお花を持ち帰る事になった。
母の弟、叔父一家がそのほとんどを引き受けてくれたけれども、それでも我が実家に持ち帰る分も少なからずあったし、名残り惜しいので父から「この後、来るんだろ?」と訊かれた際に首を縦に振った。片付け(物理的にも、精神的にもだ)等々あるだろう。
事実、斎場を出て実家へ戻ってから仏間に急誂えしたら母の祭壇を設える際に仏具の置き方で皆で協力しなければならなかった。何分、初めてだ。皆であーでもないこーでもないとやりながら、これからの話を少しした。
父と兄と僕の3人でいえば相続等々の手続きは金融機関勤務の僕が一番経験値として触れているはずなので、母の口座の関係等は僕が中心で動く事になった。勿論最終的には全て父親に決着をつけて貰う部分はあるのだけれども、実働部隊として動く分には異論があろうはずもない。早速その日のうちに郵便局に行き、母の口座の相続手続きの書類を貰いに行った。同時に、母がお世話になっていたのでご挨拶。入院した事はご存知だったけれども、あまりに急に亡くなったので局員さんも驚かれていた。
年金事務所は年金証書を引っ張り出し、電話。郵送で手続きが終わるとの事でホッとした。
区役所の関係は先日、死亡届を出しに行った時に貰ったパンフレットに色々書いてあったので、それと見比べながらどんな手続きが必要か確認をした。
意外にもマイナンバーカードはあれ、返す必要もなければ手続きする必要もないんだね。
区役所へは結局、翌日父と兄と3人で行く事にした。
その後、皆で回転寿司へ。母は何が好きだったか、という点から議論して回転寿司に決まった。
2つのテーブル席に分かれて食事をしながら、今はこうして母を失った3世帯、それぞれでそれぞれの生活を送りつつも母を失ったという点では寄り添いあってやっていくしかないのだと実感した。