海の日は観劇と妻の実家での花火大会観覧。

7月15日、3連休最終日、海の日である。
この日は昼過ぎからアトリエ混沌堂に『どうせなにもみえない』を観劇に行った。
作は瀬野一郎(廃墟文藝部/白線の内側)氏、演出はかしやましげみつ(あたらしいまち/白線の内側)氏。
アトリエ混沌堂は瀬野一郎って書くとあれだな、いつも通り書いてしまうといちろー君の企画の時にお世話になった紺野ぶどうさんが亀島に構えた活動拠点(色々なプロジェクトを同時進行で行う紺野さんの活動とアトリエ混沌堂についてはインターネット検索したところ大変詳しい記事を発見)。「ぶどうさんが亀島にアトリエを創って面白い事を始めるらしいぞ」とは人伝えだったりで聞いていたし、アトリエ混沌堂とパートナーシップを結んで一定期間創作を共にした方々の中には僕もご縁を持った人がいたり(それこそ金森君も関わってた)で興味津々ではあったのだけれども今回ようやく訪問。
古民家での観劇体験だったり常設展示としての演劇作品というのはいまいち想像力が貧困な僕にはイメージがつかなかったんだけど、いや実際に行ってみるとこれが素晴らしく脳味噌を刺激される場所であった。まさに民家の二階での観劇体験はその至近距離の距離感も相まって非常に新鮮だったし、何かを創る人間としても想像力を刺激されるのであった(本当は人様の作品を観に行ってこういう刺激の受け方は健全でない気もしているのだが)。そして常設展示はその概要をぶどうさん自身から教えて貰ったのだけれども、これはもう体験してみないとわからない、未知の領域。遠くない未来に再度足を運ばなければ、と舟橋は思ったのであった。


『どうせなにもみえない』、音楽家であるいちろー君がかつて書いた作品であり、今回かしやま君が作品内の言葉自体には手をいれず、切ったり入れ替えたり貼ったりして作品を再構築、かつ演出を行ったという。企画としては45分の短編演劇をパッケージングして継続上演する『演り人知らズ』のものでこれ自体も面白い企画ですね。
実は思いっきり順番を違えているのだろうけれども、感受性が高いとはいえない僕自身が作品を観る時に理解しやすいようにと手引きとして事前にかしやま君が今回の公演に向けて書いた演出ノートを拝読してから観劇した。
舞台美術として印象的だったのは舞台と客席の間を仕切る形で垂らされた紐。これが作品自体を象徴する程強烈だったのではと振り返ってみて思う。紐は舞台前面を覆うようで隙間も多く、役者や舞台上で起きている事象を観る上で邪魔ではないのだけれどもそれでも常に視界に存在し続けるので、結果的に膜(この場合は繭というべきか)を通して作品を観た観劇後感が残っている。
子どもを、しかも女の子を育てる身としては結構内容的にクらうものがあった。終演後に一息つきながら自分が思っている以上にダメージを負っている事に愕然としたものだ。つまりは、良い観劇体験だったという事だ。

観劇後はぶどうさんと少しお話して、かしやま君に「おいダメージ負ったぞどうすんだよおい」と絶賛の声を送りつつ、退散。
娘を妻の実家に預けての観劇だったので、妻と2人で動く滅多にない時間という事で(娘が楽しく過ごしている事の確認、かつ義母に許可を取った上で)大須にて妻と二郎系ラーメンを食らった。汁なし、ミニラーメンという事で「おやつだぜ」みたいな腹具合。


夜は娘を妻の実家に迎えに行き、そのまま港祭の花火を妻の実家のベランダから見る。
義父と義母が用意してくれたアジフライやエビフライ、義父が釣った魚の刺身等を堪能しつつ。
妻の実家は行く度に美味いご飯をたらふく食べさせてくれるので、行く度に「こりゃあ太ってしまいますね、ハッハッハ」と言いながら顔を真ん丸にして笑ってしまうのであった。