深夜に食べる納豆ご飯は罪悪の味か?
否、それはやはり歴然と納豆と白米が織り成すアンサンブルであり、それを咀嚼する度僕はこう思う「日本人で良かった」と。
納豆はタレを入れる前に混ぜると粘り気が増してより旨いように感じる。けれども深夜に食べるそれは意図的にそうはしない。タレを入れる前にかき混ぜるという行為は精神的に余裕があってこそ成り立つ行為で、深夜の納豆ご飯にそれは似つかわしくない。深夜に納豆ご飯を胃袋に入れるというのはよほどのっぴきならない状態であり、つまりは余程腹が減っているという事であり、そんな状態で悠長に「タレは後で、ね」なんて言ってられるか。
似つかわしくない、という様式美のような間隔を僕は重んじる。深夜の台所でタッパーに入った白米をそのままレンジで温めて、電子レンジのタイマーがご飯をかっこむのに丁度良い「その時」を示すまで(ちなみに25秒、だ)横目で睨みつけながら、僕はその間さえも無駄にしまいと片手間で納豆にタレを流し込み奴らをかき混ぜる。
タレをぶっかけられた後で初めて箸を入れられる納豆達はその粒と粒の間に入るタレが潤滑剤になってゆるゆるとしかかき混ぜる事が出来ない。大体からして、手応えが違う。タレを入れる前にかき混ぜる時の音を「ニッチャニッチャ」と表現するならばタレを入れてかき混ぜる音は「ザラリザラリ」だ。
こうなると粘土と粒と粒の間に充満する膜を期待するのは愚の骨頂で、奴らは粒自体がスタンドアローンな存在、希薄な粘り気のみで繋がった豆の集合体になってしまう。
だけれども、それでも旨い。天晴れよ。
さてここでこのブログを読んで下さっている諸兄に問いたい。
納豆ご飯を食べる際、貴方は白米と納豆を混ぜ合わせる派だろうか、それともそうしない派だろうか。
僕は断然後者であり、白米とその上にのった納豆の分量を比率で捉えながら箸でそれらを持ち上げ、そのまま口の中に放り込んで咀嚼する。これはもうショートケーキをフォークで切り取って口に運ぶのと同じ感覚で、つまり口の中では納豆と白米の二層状態。ここの温度差っていうのがポイントだ。
白米の温度がうつった納豆っていうのはどうしても、解せない。これはもう完全に好みの問題だけれども、納豆の冷たさと白米の温かさのアンサンブルっていうのは味わう上でも大事なポイントと認識している。
所謂「丼ぶっかけ飯」の類でもそうだ。ご飯とぶっかけられる「具」の部分を完全に混ぜ合わせるのなんて卵かけご飯くらいのものだ。味噌汁をぶっかけても白米とぶっかける味噌汁の量の比率に気を遣ってぶっかけるので味噌汁のプールを白米が泳ぐ、なんて事にはならない。卵かけご飯も一頃、その点にこだわって丼の半分を卵の池にして、そこに白米を落とし込んでは適時、適切な比率の白米と卵を口の中に流し込んできた。この食べ方だと卵かけご飯を楽しむ時間の半分以上が「サラリサラリ」といった一種優雅ささえ漂う行為になる。
反面、「ぶっかけてる」のにその行為に伴う快感は半減するので粗野な気持ちの時は緩めに混ぜるのが良い。
卵かけご飯くらいじゃあないか、混ぜるという行為を許容出来るのは。
納豆に話を戻そう。
しかしてそうやって箸で山から切り取って口に運ぶ、という行為も重量感のある納豆とそれにかかっているタレの潤滑剤的な働きによって白米の山からそれらがこぼれ落ちる、という事がままある。そういう時は一種の落胆と同時に、いきおい混ざってしまった(白米の山からこぼれた納豆はどうやったって山の上に復帰させる事は出来ない。それは至難の技である)納豆と白米を口の中に運ぶ事となる。
この時に箸で運ぶよりも「ええいままよ」とかっこむのが良い。二次的な副産物ではあるけれども、この思うように事が運ばなかった事によるやけっぱちな気持ちさえも楽しむためには潔く現状を受け入れ、納豆と白米を丼(僕の場合はタッパーである事も少なくないが)の端に口をつけ、口の中に向けて箸で押し出してやるのが良い。
この場合の敗北感というのは、清々しい。負けを認めた人間だけが到達出来る天上の快感である。
そうやって一杯の納豆ご飯を食べ終えて、納豆の粘度の残滓が残ったタッパー或いは丼を眺めながら「また、やってしまった」と思うのも敗北の快感である。
いや、背徳の、というべきか?
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