美術館へ行った。

妻がムーミン展に行きたいと言う。
僕も全く興味がないわけではないし、家族全員で出掛ける事にした。
こういう「自分一人だと足を運ぶ程に関心があるわけではないけれども、身近な人間が関心が高いが故に連れて行かれる」ようなもの程、実際振り返ってみると気付きを得たり視野を広げたり更なる興味を刺激されたり等、良い機会になる事が往々にしてある。
この適度な興味って大切。
自分一人の人生だと選択の結果、機会を捨てる事にもなるであろうから尚更だ。

家族全員で名古屋市美術館へ向かう。
コインパーキングに車を停めて公園を突っ切って美術館へと歩いていく。3歳の娘の興味は公園の遊具に向けられており、展示を見た後に遊んで帰る約束をする事で娘の衝動は一時的に収まる。
美術館の前まで来て、僕達は自分達の間違いを悟った。
ムーミン展は名古屋市博物館で開催されており、美術館ではフランソワ・ポンポン展が大好評開催中だったのである。
場所を、間違えた。
1時間半後には僕が予定が入っており、伏見の名古屋市美術館から桜山の名古屋市博物館まで移動するとなると展示を見るには時間は余裕がないように思われた。
開催を知った時からフランソワ・ポンポン展にも関心を示していた妻は「今日はこちらに呼ばれてきたんだね」と僕が1発で納得するような物言いで、一瞬にして僕達の過ちをポジティヴなものに反転させたのであった。
相棒がこういう気質だと助かる。

フランソワ・ポンポンについては全く知識がなく、名古屋市市営地下鉄の駅に掲示されているこの展覧会の宣伝広告でその名を初めて聞いた程、僕の人生はこの芸術家とご縁がなかった。
ただ宣伝広告に載っている彫刻を見た際にも「なんだか素敵な作品だな」と、漫然と眺めていた割には好意的な感想を抱いたし妻も「どちらにしてもこの展覧会も来たかったしね」と好意的であったのでそのままフランソワ・ポンポン展を楽しむ事にした。

展示は彫刻家としての作風が出来上がっていく過程も見せてくれ、その曲線の美しさ、簡略化(といっていいのかわからないが)の美しさを楽しんだ。
娘も楽しそうに観ていたので良い情操教育になったのではないだろうか。

そして僕は全く初見のこの彫刻家の展覧会を、想像していた何倍も楽しんだ。
豊かな時間だ、と心が洗われるような感覚さえ抱いた。
やはり人の表現物をゆっくりと見聞きして、何かしらを感じるという行為は日常生活に於いて贅沢品だ。生きる事に必死であるとそういうものを楽しむ事さえ出来ないだろう。自分に余裕がある事を有り難く思った。美術館や博物館は今後も機会を見つけては出掛けて行きたい。
ひとまず、来年ゴッホ展があるようなのでそれは見たいと思った。