昨夜バンドメンバーと話していながら考えた。
うむ、自然と相手の話を聞ける姿勢になっている。ついせっかちで結論を急いで口を挟んでしまうけれど、相手の言葉に反対する意の言葉をかぶせてはいない。
かぶせなくてもいい。
コミュニケーションというものについてこの歳になって考える。
僕が言葉を投げつけたことで傷ついてきた人間に何人も出会ってきた。中には確実に取り返しのつかないような事を言われた人間もいるだろう。言葉で刺し殺したり、傷跡を抉ったり、そういうものが具現化できるとしたら彼らはきっと見るに耐えないくらいボロボロなんじゃないかと思う。
同時に他人の感情や心情を踏みにじる人生でもあった。僕を「裏切り者」「卑怯者」「臆病者」と罵りたいであろう人間を僕はごまんと知っている。僕は彼らに対して不誠実な行動をとった。彼らの善意や温情を踏みにじってやった。
この大量殺戮者、人から忌み嫌われても仕方の無いこの人間性の暴力行為、人間が恐らくは自分の感情というものを意識しだしてから気の遠く成る程繰り返されてきたこの行為に手を染めた、いわば共犯者である僕は確信に近いものを抱きつつ言えるのだ。
自分も没個性的な一人であるに過ぎない。
どこにでもいる一人のフリーターに過ぎない。
あなたの良き隣人であり、悪意ある潜伏者。
どうかこんな僕をよろしく。
否定から入るからいけない。肯定の余地のない理解などそれは理解ではなく、追放と呼ぶのではないか?
さてさて、ここまで思った事と嘯いて言うような事を同時に記してみたが、果たして何が本当なのやら。
全部そうだろうさ。理路整然と語れるなんて、嘘っぱちだ。
濁流、である。さもありなん。
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