昨夜は「感性で遊ぶ男」と「感受性で遊ぶ男」と「自分の脳味噌で遊ぶ女」と「眠る女」とキムチ鍋を手を替え品を替え食らった。「眠る女」って意味深長なようだけれども、お酒を飲んで鍋を食べてゲームをやってニコニコしながら眠ってしまったのでそう表現しただけです。
「感性で遊ぶ男」も「感受性で遊ぶ男」も、そして「自分の脳味噌で遊ぶ女」もあくまで僕から見たその人の人となりでそういう表現をしただけなのだけれども「自分の脳味噌で遊ぶ女」に関しては自覚もあるようで随分と抽象的な言葉を使ってご本人のその『遊び』について話をしても会話ががっちりと噛み合っている感覚があった。
自分の感性っていうものを一方向に向けず限定せず、他者からの刺激は勿論受け入れつつもまずは自分の感性を解き放つ遊び(ドローイングを文章で出来ないかと思って、とか凄い発想に思える、僕には)をしている彼女は僕からすれば自分の頭の中、感性という小宇宙をどんどん押し広げているような、自分の中の様々な感覚を線で結びつける作業をするような、敢えて人間とは真逆のパーソナルコンピューターに例えるならばソフトウェアをインストールせずともどんどん自分の中のアプリケーションを使って自分をアップデートしていくような、そんな風に映った。ワードとペイントソフトがインストールされているコンピューターが、それら二つを使ってそれら以上のツールを自己開発するような、そんな事を彼女は自分の脳味噌を使ってやっていた。
ちょっと、出会った事のないタイプの人間。
社会的にも思春期を乗り越えた女性としてもちゃんと自己を確立している女性ではあるのだけれども、およそ芸術表現とか自己表現っていう部分に関しては枠組みであるとか外的なものとのすり合わせっていうものをしないまま、肯定的な意味で子供と同様の強靭な想像力を残している、身近にいればこんなに面白い事はない人である。
このブログを含め自分をアーカイヴ化する事に目下心血を注いでいる僕には同じ事って出来ないだろうからこそ、物凄く刺激的だった。
「感性で遊ぶ男」も「感受性で遊ぶ男」ともそれぞれキムチ鍋を食らいながら大いに話をした。共感出来る部分も共感出来ない部分も理解出来る部分も理解出来ない部分もあってべらぼうに面白かった。
やっぱり、他人って最高に面白い。
キムチ鍋は残念ながら深夜のマックスバリューではもやしが売り切れだったので野菜は白菜と葱だけしか入れる事が出来なかったが、その分肉や餃子等楽しむ事が出来た。〆で食べたうどんが、明け方に大いに話をして刺激と感銘を受けた後だったからかもしれないが最高に美味しくて「最終的には麺類に着地するところが実に良い」と人様の分もガンガン啜ってしまった。
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