“恐怖”という感情

スタジオ帰りに各務くんと話していた事柄、それが非常に僕を刺激してやまない。この興奮を記録しておくために今からちょっとばかり長い文章を書いてみようと思う。

我々が常に対峙し、向き合い同時に背中あわせな感情。この世に生を受けた瞬間から息を引き取るその瞬間まで付き纏う忌むべき感情。我々はそれを“恐怖”と呼んでいる。
我々の毎日は恐怖に満ちている。仕事での失敗への恐れ、苦痛にあうかもしれない恐れ、望んだ結果が得られない事への恐れ。我々の毎日は喜びと利潤の追求であるのと同じ程度に恐怖との戦いである。
だが我々はああ、自分の身にふりかかるかもしれない“恐怖”だけでは飽きたらず、なお極上の“恐怖”を求めるのだ。或いはそれは自分と切り離された空想の産物、来たるべき“恐怖”する瞬間せめて苦痛を減らそうと抗体を作る作業かもしれない。

ホラー映画、ホラー小説等様々な芸術表現に我々は“恐怖”を求めるのだ。

ホラー映画、ホラー小説と同列に並べはしたものの、その二者に共通する“恐怖”は本質的に全く別物ではないかと考える。片や具現化され、具体例として提示されたものであり片や想像力をもってして補わなければならないものだ。

例えば同じ題材を扱ったとしよう。正確ではないし本テーマを根本的に揺るがし得る致命的な欠陥を抱えてはいるけれど可能な限りその要素を排除して書いてみよう。
そのため提示順と書く順番が入れ替わるがご容赦を。

まずはホラー小説での具体例。

「彼は窓を開けた。そうして彼の視界に飛び込んできたのは、逆様に吊り下がった女が血まみれの物凄い形相で彼を睨んでいる光景だった」

以下ホラー映画での具体例。
「渡部篤郎が部屋の窓を空けた。すると逆様に吊り下がった水野美紀が血まみれの顔で渡部篤郎を睨んでいた」

シチュエーションと文章での表現力により、どちらも同じ印象を受けるかもしれない。いや受けるだろう。

考えてみて頂きたいのは「具体的に光景を見せられるのと、文章によって刺激された想像力であなたが“見る”光景、どちらが恐ろしいのか」という事だ。

ホラー映画にはショッキングなシーンが多数含まれる。編集効果や音響効果によってそれを観た貴方は飛び上がるかもしれない。そのシーンを思い出して嫌な思いをする事もあるだろう。

だがそのイメージは果たして時間の経過とともに先鋭化され得るか?

ホラー小説或いは怪談話に渦巻く“恐怖”の本質はそういう観点である。ホラー映画が“恐怖”を“記号”として具体的に提示するのに対してホラー小説は“恐怖”を想像力によって作り出す、生み出すスイッチを押すだけに過ぎない。だからこそ映像が伴わないホラー小説には読み手にとっての究極の“恐怖”に満ちているのである。

女の幽霊をバーンと見せるよりも情報として与えられた方が受け手はその人にとって最恐のイメージを受け取るだろう。

人間は夜の闇に“恐怖”を投影してきた。
それはつまり我々が想像力を礎に“恐怖”を育んできた事に他ならないのである。

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