究極の凡庸。

ちょっと思う所があったのでメモついでに。

「身の程を知る」「分をわきまえる」「自分に確信がある」。
言い方は何でもいいけれど、自分という存在を可能な限り客観的に見つめて実像を的確に把握する事というのは重要な事である。
自分は秀でた人間だ、自分は天才だ、自分のルックスは中の上だ、自分は徒競走で一番にはなれないがそこそこまでならいける人間だ、自分には絵を描く才能がない、何でも良い。自分を知ってそれが適切だと思われる事、それを僕は重要視する。
自分を適切に捉えられる人間はそれ以上に奢る事はなく、それ如何にへりくだる事もしないだろうし、自分の程度以上を目指す事もできるし自分をそれ以下に貶めた際に省みる事もできる。

そういう意味では僕の中で「自分は天才だ」と確信している人間と「自分には絵を描く才能がない」と確信している人間は等価である。贔屓目も謙遜もなく自分を定義できる人間は強い。無自覚な人間よりかは強く在る事ができる。

僕は凡庸な人間である。恐らく凡庸の範疇を死ぬまで出る事がない人間だろう。
外見も凡庸、十人並み、身長は低く頭もデカく、服装も洒落た服よりかは小奇麗な格好をした方が無難、といったところか(予断だが、僕の中で『お洒落』の定義は、分をわきまえた格好を適切にする、というものである)。
外見的な観点だけでなく内面も凡庸の域を出る事がない。専ら情熱をそそいでいる音楽活動だが、僕個人の話であれば一人で最高の楽曲を作曲する『音楽家』としての才能もあるとは思えない(バンドの一構成員としては別の話。集団作業や集団創作であるバンドとは別のものが要求されると考える)。こうして好きで書いているブログや日記等の文章表現も、自分の考えている事や発想を適切に伝達する事はできれども世の中にうってでる程価値を有するとも思えない。ざっくばらんな言い方をすればこれでお金が稼げるとは考えていない。

だからと言って自分を卑下する事はしないし、他者からの肯定を否定する気は毛頭ない。人間は学習し成長する生き物であり、僕もそのご他聞に漏れずそうである。
今までの様々な経験、研究、努力の成果がベース演奏や文章構築に反映されているだろうし、そこを肯定されると素直に嬉しいと思える。自信とまでは言わないながらも自分はこれで間違いない、と経験を積み重ねた結果、確信を抱いている部分もある。

しかし世の中には、そんな積み重ね等あっという間に覆してしまう非凡な人間がいるのだ。彼らは易々と僕の経験や学習結果を一足飛びで飛び越えて、更なる高みを目指していく。プライドによっかかって生きているわけでもないので(そんな事をしていては自己認識に則った生き方等できやしない。できるわけもない)とりたてて現実以上に思う所もない。そういう人間に対して思うのは「彼、彼女と交わっていれば面白い事が起こるだろう」という事と「この人間をこう捉えれる自分の感性があって良かった」という事だ。才能を有する人間をそれとわかるのもまた才能。

僕は究極の凡人を目指す。凡庸の中の凡庸、凡人の中の凡人。
自己認識とそこから発生するモチベーション、それを原動力とした上昇志向を愛する僕はその位置を目指す目標を掲げて行動するのが一番だ。

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