漫画やら映画やら。

僕は青春めいたものやキュンとなるものが嫌いだ。

・例えばギター一本持って旅に出、行き着いた街で出会った人達との心温まる交流を描いた青春小説。

・例えば何気ない日常、繰り返されていく日常、だけれども愛おしい、そんなゆっくり時間が流れる毎日を大学生グループの視点を通して描くコミック。

・例えば夏の大会に向けて猛特訓を積むサッカー部員達。そしてそこで生まれる友情、恋愛。

・例えば町外れに住む或る一家。そこに突然居候する事になった『人の生き死にが見える』という少年。不思議で残酷で、だけれども暖かい時間を描いた映画。

・例えば不思議な感応性を持つ少女と若き天才科学者の国家権力からの逃避行。

・例えばターゲットに恋してしまった死神と、ターゲットの少女との複雑で、切ない、限られた時間の中で感情を爆発させる恋愛映画。

・例えば「写真と写真の間から滲み出てくる会話、あの日の温度、時間の流れ、落ち着く時間、二度と戻ってこない青春。そんなアルバム。

そんなものが嫌いだ。
何故かというとそれらは自分で『体験し』得なかったからだ。前述したものの中にはとても現実的で実際的でないものも多いけれど、ひょっとしたら自分も体験できたかもしれないし自分が創り得たものも含まれるかもしれないのだ。
実際に人が体験した経験談で上記のようなものを聞いたり見たりするわけで。
だがそれに対する僕の『青春』が僕に何をもたらしたかというと、この自己顕示欲に満ちた文章表現とひねくれた視点、劣等感と優越感どちらにもなり得る自尊心。ああ、あとはあれか、他人よりそういった事柄に関しては寛容かもしれないねえ。
兎に角、そんなところだ。

僕は結局虚構に踊らされているのだ。
理解はしている。キャンパス帰りにふと空を見上げてその夕焼け空に涙を流すような青春を体験した若者はそうはいないだろう。
毛布にくるまれて愛を語らったり「どこまでもこの時間が続けばいい」と思えるような、失う事が恐ろしくてたまらない(何と歯のうくような台詞だろうか!)ような恋愛を経験した若者はそうはいないだろう。
そんな事はわかっているし、そんな事は知らないね。

問題なのは僕がそういった事柄に対して無上の憧れを感じるのだ。
本人がどう感じているのであれ、それぞれに『羨むべき青春』的なエピソードを人が話すのを聞くにつれこの嫉妬は膨れ上がる。こんな自己陶酔的な文章を書きながらも『隣の芝生は青く見える』的な視点で物事を見てしまっているであろう事くらいは理解できている。だけれどもそんな事は知らない。ただひたすらに羨ましい。

何故って、僕には(そして僕らには)もう10代は、学生時代は、無邪気に希望を信じ続けれた日は、学校帰りというシチュエーションは、制服を着ていたあの時間は、文化祭は、大学祭は、体育祭は、卒業式は、その他諸々のおよそ『青春』という文字を冠するであろう表現作品に記号的に使われるエピソード的なものは一切合財が。

二度とは戻ってこないのだ。

戻ってこないが故に、嫉妬するし後悔する。
ああ、もっと時間を有意義に使えば良かった、だとかあの時こうしていたらどうなっていただろう、とか。
だけども今の現状に不満があるわけではない。自分が恵まれている事もわかっている。欲というものは尽きる事がないのだ。

他人の青春を体験してみたい、というのがその欲を形容するには一番相応しいかもしれない。だけどもそんな欲望を抱いたら最後、役者か小説家か何かになるしかない。
ああ、成る程。だからブログの更新を続けるのだな。

結局劣等感というか引け目というか、悔しいのですね。
ああ、嫌いというよりは妬ましいだけなんだな。

撤回。僕は青春めいたものやキュンとなるものが苦手だ。

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