髪。

それは一種の偏執狂のようなものだったのでしょう。
三條瓦戸井助は幼子の頃から女性の髪の毛へ並々ならぬ執着を見せたのでした。

当時は今ほど美容院や散髪屋はありませんでしたし、何より彼の両親は「散髪に金をかけるくらいなら切ってあげますよ」と言う程の人物であったので、当然戸井助や彼の姉の散髪は彼らの母親の手による時が多かったのでした。

血管が浮き出る程色白の母の手が散髪用の鋏を姉の髪の流れに潜り込ませ、その美しい黒髪を断つ瞬間こそが最も戸井助を興奮させました。チョキンと、時にはジャキンと音をたてて両の刃が収まって、光沢のある黒髪の束がさらりと床に敷いた新聞紙の上に落ちる。半年に一度程度の頻度で目にするこの光景を戸井助は愛し、姉が髪の毛を切られる瞬間には日頃興じていた鬼ごっこや路地裏の探検もひどく味気無いものに思われるのでした。

「まったくお前は変わった子だねえ」
母と姉はそんな戸井助を面白くて仕方がないといった風情で眺め、ホホホホと笑いました。

ぜんたい、女性の髪の毛には魔力が宿るとものの本には書いてあったりしますが、しなやかな黒髪には何か宿っているのでしょうか。その美しさ、香しさ、因美さは戸井助少年を惑わせ、そして今なお戸井助は髪の毛の魔力にとり憑かれているのです。

実際のところ、戸井助が交際しているタエ子にしろどこが一番の魅力かと言われたら髪の毛なのです。友人達は「一体全体三條瓦はどうしたんだ。タエ子ときたら別段器量よしなわけでもないし性もよくない。あいつのどこに惹かれているのか」と口を揃えるのですが、戸井助からするとタエ子の鼻梁が曲がった鼻筋も、何かにつけて人に指図したがるその性格も大した問題ではなかったのです。

ああ、俺にはこの髪の毛が必要なのだ。この髪の毛は麻薬だ。俺の心のヒダにまで入り込み、俺をしばりあげ、俺をとらえて話さない。

戸井助はタエ子の髪の毛に顔をうずめてはホゥと溜息をもらすのでした。

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