簡単な事を長々と書いてみる。

つくづく痛感するが、自分は言葉にしておかねば安心できぬ性分である。およそ理解しているもので言語化できないものはないし、言語化した事でそれ自身への理解を深めるというスタンスを長らく採ってきた。

それはつまり、自分の行為が偽善は偽善と断じる事ができたり、対人関係に優先順位をつける事ができるという僕の性格にも関係してくる。言語化、脳内を整理しておかねば気持ちが悪い。

意味のないもの、不定形なもの、実のないものに対してもその意欲は変わらない。意味がないという事自体がそのもの自体の意味であり、僕はそれを言語化しようとする。
感覚で物事を理解するバンドメンバー(それ自体に違和感は感じない。たまに意思の疎通に時間がかかるくらいだ)と議論していて、そんな自分の性分を再確認した。

人によっては几帳面、神経質となるのだろうなこの性格。だが恐らく、真に感覚でしか理解しえない事柄に対峙した際は恐らく僕は何の躊躇もなくそれに望むだろう。

自分の内的世界では言語でアウトプットできない事象、変換できない概念は存在し得ないのだ。僕がそれをそうと感じる物事に出会ったら恐らく僕は「これは言語では理解しえない」と感じるだろう。

その瞬間に理屈屋は感覚派になる事で自らにオチをつけるのである。

理性的な人間は理性で全てを解決できない事を理解しているが故に、感情的になる時は何の躊躇もなく感情的になるのと同じ仕組みである。

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