森博嗣『すべてがFになる』読了。
助教授とお嬢様学生(度を越した特権階級の人間だ。上流階級のカリアチュアライズだろう)が孤島の研究所で起きた殺人事件に挑む。この研究所というのが作品発表当時からすれば恐らくは非常に先進的、近未来的で技術の粋が結集されており、その辺の描写が適度な科学考証の元に描写されているのが楽しい。
また、『個』の集合体としての『研究所』故に、他者と関わる必要のない研究員。部屋から出る事すらも機会が少ない彼らが属する研究所は、個室の表札はおろか見取り図やフロア案内すらないというのも妙に合理的で、それが故にキャラクタライズ(こんな言葉があるのかは疑問)されていて面白かった。
しかしどうにもなあ。
僕みたいな人間、そして僕のように西尾維新の気配、或いは西尾維新が影響を受けた源泉たる気配を一瞬でも本書に感じてしまった人間なれば登場人物のアクの無さに飢餓感を憶えるだろう。かくいう僕もその一人。
西尾作品、というか『クビキリサイクル』を読書中に彷彿としてからというものの、犀川助教授と萌絵嬢に対して妙に冷静な視点で眺めてしまった。ヘヴィスモーカー過ぎる犀川先生、度を過ぎたお嬢様で天然の萌絵嬢はそれはそれは魅力的な作中人物なはずなのだけども。
そしてそして何よりも僕は、根っからの文系で作中で描写された二進法や十六進法、コンピューター用語や近代技術に関して根っからチンプンカンプンだ。それを理解する余裕すらない、というかどこかで拒絶している。
その辺のところもどこか作品に距離を置いてしまった一因かもしれない。
それでも犯人の動機、行使したトリック等は興味深いし、そのキャラクター造詣と特異性は印象深い。
それはいくらエピローグが蛇足気味でも同じである。
何より、本当に本書に距離をとっていたら僕はこれを休憩も挟まずに、一息で読みきる事などできはしなかったであろう。
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