定期的に読みたくなる海外ホラー、今回はリチャード・バックマン著『死のロングウォーク』を読んでみた。
いつも通り粗筋を。
近未来のアメリカ。そこでは選抜された十四歳から十六歳までの少年100人を集めて毎年五月に〈ロングウォーク〉という競技が行われていた。アメリカ・カナダの国境から出発し、コース上をただひたすら南へ歩くだけという単純な競技だ。だが、歩行速度が時速四マイル以下になると警告を受け、一時間に三回以上警告を受けると射殺される。この競技にはゴールはない。最後の一人になるまで、つまり九九人が殺されるまで、昼も夜もなく競技はつづくのだ。体力と精神力の限界と闘いながら、少年たちは一人また一人と脱落し、射殺されていく。彼らは歩きながら、境遇を語り、冗談を交わし、おたがいを励ましあう。この絶望的な極限状況で最後まで生き残るのははたして誰なのか―。死と直面する少年たちの苦闘を描いた、鬼才キングの問題作、ついに登場。
鬼才キング?そう、何を隠そうリチャード・バックマンはスティーブン・キングその人である。
作家は一年に一作品だけ作品を発表する、という風潮があった当時、多作なキングが別人に成りすますために使った“ペンネーム”が「リチャード・バックマン」。一説では「(スティーブン・キングの名を隠して)無名の作家の作品がどれだけ売れるか試してみたかった」というキングの挑戦意欲に起因する行動だったとも言われているけれども、兎に角リチャード・バックマン=スティーブン・キングはその名義で何作品か小説を発表、出版しているのである。本書はその中でも、いや、キングの作家人生に於いても最初期に書かれた、事実上の処女作品なのである。
上記の粗筋を読んで頂ければご理解頂けるだろう、本作品は「兎に角歩く。立ち止まったり制限速度を下回り続けると射殺される」というルール付の『ロングウォーク』なるゼロサム・ゲームを描いた作品である。それに挑戦するのは14歳~16歳の少年達。ここで恐らく誰しもが連想してしまうのが高見広春著『バトル・ロワイアル』であろう。発表当時相当話題になったあの作品だが、この『死のロングウォーク』がその原点であるとも言われている。
しかし相当に強烈な設定である。
ただただ歩く、という行為に死を結びつけた発想も凄いけれども、それがどうやら「国民的競技」になっており何であれば出場が「奨励される」ような近未来国家(とはいっても作中で描かれる町並みや生活様式は、完全に当時、あるいは現在のそれである)の描かれ方はただの付加要素以上の意味合いが込められているような気がするのだ。
勿論作中の少年達(ウォーカー、と呼ばれる)の目線を通してみた群集が何を意図して描かれたのかと問われれば、色々考える事は出来るだろうしそこに一抹の批判的要素を見出す事は難しくないだろうけれども、本書はそんな小難しい事を考えずに読むのがお薦めである。
一定の速度を守って黙々と歩くだけの、ただそれだけの競技。しかして確実に100分の1の確立でしか生還出来ないその競技に自らの意思で参加した少年達は、お互いに励ましあい、協力しあい、支えあって歩いていこうとする。目の前の『友』を助ければ助ける程、それは自らの首を絞める行為になりかねないにも関わらず、だ。
勿論少年達の中には一癖も二癖もある奴もいて、皆が皆そうではない。所謂嫌われ者も存在する(「お前の墓の上で踊ってやるぞーぅ!」のシーンは圧巻。やっぱりキングはキングだ)し、淡々と歩くだけの、しかし明確な意思を持って孤立する少年も存在する。
言ってしまえばこの『ロングウォーク』という舞台設定は作中の少年達の人間性を露にするのに一役も二役も買っているのだ。極限状態に追い込まれた少年達は或いは早々に脱落し、或いは危険も顧みずに友人を助けようとし、或いはライバルを蹴落とそうと心理戦を仕掛けにいき、死を覚悟して友人に微笑んだりするのだ。
そしてそれらを描くのは、稀代の作家スティーブン・キング。初の処女長編作品でも所謂『キング節』は健在であり、少年達はその口調、振る舞い、そして彼らの生活を生々しく想起させられる描写によって力強く躍動(尤も作中では歩いているだけの描写がほとんどなのだが)する。
だからこそ本書は切なく、そして怖い。
物語の結末もその物語の設定上、想像出来てしまうし粗筋も簡単明瞭、少年達が「歩いて」いるだけだ。
しかし本書が名作として愛され、怖がられるのはその作者リチャード・バックマン=スティーブン・キングの筆圧に依るのだろう。
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