「大丸ラーメン、閉店」。
突如twitterのTL上を駆け巡ったこの噂に、名古屋が、そして全国の好事家が、揺れた。
「大橋さんが年金生活に入るため、近々閉店するらしい」という、何年も前から囁かれてきた噂。しかし誰もそれを口にせず、そんな日が来るはずが、来ようはずがないと目を背けてきた噂。墓場から死者が甦るように、或いは忌まわしい記憶が脳裏をよぎるようにその噂はtwitter上に蔓延し、動揺を伴って情報は駆け巡ったのである。
改めて説明するまでもないかもしれない。
大丸ラーメンは名古屋は千種区、今池にて夜中2時頃から明け方5時まで、極々限られた時間で営業しているラーメン屋である。看板らしい看板はなく(店の前には落書きだらけの薄汚れた板が一枚置いてあるだけである。注意深くそれを観察すればかろうじて“大丸”とサインペンか何かで書いてあるのが読めるだろう)、行列と香ばしい匂いが目印である。座席数はカウンター席6席のみ、客席側に冷蔵庫が置いてある事から象徴されるように店内は非常に狭く、そしておよそ清潔であるとは言えない。
カウンターの向こうではマスク、三角巾とエプロンを身につけた小柄な老人がラーメンを作っている。名を大橋というその老人は興に乗りさえすれば実に雄弁で、その抜群の記憶力を以ってして貴方に楽しい時間を約束してくれるだろう。
そして供されるラーメン。基本1.5玉の特注麺であり、その湯で具合も様々。一定した味、というものはこの店にはない。そのキャラクターは決して揺るがずとも、日によって微妙に異なるスープの味。基本醤油ベースなのだが形容しがたく、人によってはそう、「焼きそばのような味」と形容される。キャベツ、練り物、そして大量のもやし。その下に埋もれた煮込まれたバラ肉は味が濃く、この肉のエキスがスープに溶け出す事で大丸ラーメンのその味は完成する。
かれこれ50年近く、今池で愛され続けてきたラーメン屋であり、極論してしまえば大橋さんその人が愛され続けてきたのだ。
そんな大丸ラーメンが、閉店。
手が震えた。ガツンと衝撃を受けた。喪失感に苛まれ、わけのわからない衝動に駆られた。TL上ではどんどん情報が拡散され、皆その声にならない悲鳴をツイートにのせている。
行かねばならない。
行かねばならぬ。
胃はコーラで膨れてはいたが、夕食後にうたたねしてしまったのでカレー以外は口にしていない。仮眠もとったので眠くもない。行ける。行こう。
twitterにて「大丸うぃる」とツイートし、自転車に跨った。
十数分後、大丸ラーメンの前に到着した。
果たして、そこにはいつも通りの平和な大丸があった。暫時、待つ。体が、手が震えているのは寒さのせいばかりではない。閉店の噂が本当だろうとガセだろうと、今夜の一杯はきっと特別な一杯になる。胃袋が、そう確信していた。
入店後、egoistic 4 leavesの皆さんも大丸に到着。店外にて並んでいる皆さん曰く、やはりtwitterを見て駆けつけた、との事。侮るがたしtwitter。そして愛されているな、大丸ラーメン。
「麺も、固めだったね」
いつも「練り抜き、バリカタで」と注文する僕の嗜好を憶えて下さっている大橋さんが声をかけて下さる。入店時に感じた緊張も随分とほぐれてきた。訊くなら今しかない!
「あの、大橋さん」
「はい」
「ネット上で、お店を閉めるって見たんですけど」
「ああ、閉めましたですハイ」
「!? ・・・閉め、た?」
「あのー1月の3日ね、ガス漏れしてましてですね、ガス会社の人呼んだもんだで。その日はお店閉めましたですハイ」
「wwwwwww 何だかね、大橋さんが年金生活に入るからお店閉めるって」
「あー年金。わし年金を60歳から貰っとるです。早めに貰ったもんだから減額されましてですね、わかりますか減額。減額されたもんだから何だかんだで手元には4万くらいしか残らないです」
「へえ」
「もうね生活出来ないもん」
「じゃあ、お店閉めるとか辞めるっていうのは」
「もう、だから辞めたくても辞めれないですハイ」
大橋さんの悲痛な訴え。しかしながらどこかコミカルな雰囲気が漂うのは、かれこれこれをもう何年もずっと仰っているからであり、そしてご本人も「具合が悪い具合が悪い」と仰りながらも何だかんだでお店を開ける程にはお元気だからだろう。大橋節、今夜も健在だ。
かくして「大丸、閉店」の噂はガセだとわかった。僕は目の前のラーメンに箸を突っ込み、この情報をツイートしたら皆、どんなリアクションをとるかな、とTLが喜びで満ち溢れるのを想像して、麺をすすり込んだ。
今夜の大丸は、今までにないくらい清清しい味がした。
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