母の通夜。

母が亡くなった翌日の日記。
7時頃起床。目が覚めて、起き上がろうと思うもどうにもその気になれずにベッドの上でゴロゴロしていると会社の上司から着信。前夜に忌引きの旨お伝えしようと電話をかけていたのでその折返しだった。母の容態の事は伝えていたので説明も簡潔。

この日は12時半頃、実家へ斎場の人達が母を迎えに来る事になっていたのでそれまでに実家集合、となっていたが、僕は母の死亡届を提出、同時に火葬許可証の受取に区役所に行く事になっていたので早めの行動開始。
まあ大体10時過ぎに自宅を出れば良いか、と思って準備していると妻が喪服のサイズが合わないので買い直すという。娘を妻に託して僕は地下鉄で移動する事となった。
実家へ行き、死亡診断書(今後、生命保険や相続手続きで必要になるのでコピーを取っておいた)の原本を持って千種区役所へ。元々は池下駅のすぐ近くにあった千種区役所だが、建て直しの工事のため、東山公園の近くで仮設舎で運営中である。再び地下鉄に乗り、テクテク歩いて千種区役所(仮)へ。父や兄から「歩いて行くにはしんどいぞ」と言われていたので覚悟していたのだが、意外にも駅から徒歩5分程で到着。歩くのが嫌いではなくて良かった。
日曜日なので勿論区役所としては閉まっているけれども、入り口に近づいていくと守衛さんがすぐに開けてくれ、区役所の職員さんが対応して下さった。母の本籍については父親に電話で確認する必要があったけれども、特に困る事もなく書類に記入を終え、提出。
仕事柄、人様の戸籍謄本を扱う機会もあるのだがこれってあれじゃないか、戸籍謄本に載ってる死亡届を出した親族として僕の名前が載る奴じゃないか、とようやくこの時に思い至る。意識せずに結構な大役を担ってしまったのではないか。
ともあれ、母の戸籍に死亡の事実が載るにはこれから10日程かかるらしい。じゃあ様々な手続きは年明けかな、と思いつつ実家へ。

実家へ戻ると兄一家は既に喪服に着替えており、天むすとマクドナルドのナゲットの昼食をとるところだった。程なくして妻と娘も到着したので、車に積んであった喪服に着替える。前回喪服を着たのが妻の祖母のお葬式だったので丁度5年前だ。喪服のポケットから伊勢志摩の斎場で配られた式の進行についての説明が記載された紙が出てきた。
有難い事にこの5年間、喪服を着る機会はなかったが、まさか妻の祖母の次に喪服を着るのが母のお葬式だとは。
また、母との別れがこんなに早くやって来ようとは想像さえしなかった。
斎場の車に皆で布団を掴んで母を乗せ、平安会館 今池斎場へ向かう。僕は2列目の座席、丁度横になっている母の頭の横に座る形になった。車が走行中、揺れる度に母の頭もガタガタと左右に揺れるもんだからちょっとヒヤヒヤした。

平安会館 今池斎場は祖父の時に来て以来だ。
当時は高校生だったので記憶も曖昧だが、その時よりも親族控室が綺麗になっている気がした。親族控室で一息ついていると、隣の部屋で『湯灌(ゆかん)』の儀を行うという。これは旅立ちの前に体を清める行為で、洗髪や体を洗った後に化粧を施して頂くものだ。映画の『おくりびと』で観た奴だな、だなんて呑気に思った。
母は髪の毛と体にタオルをかけて貰い、金属製の浴槽の中に横になっている。その傍らに座布団を敷いて僕達親族が座った。
湯灌師のお2人の説明を聞きながら儀式が進んでいくのを見守る。足元から胸に向かってひしゃくでお湯をかける。これは交代で我々親族が行った。程なくして「親族の方でお手伝いして下さる方はいらっしゃいますか」と投げかけがされた。母の足を洗う事が出来るらしい。

湯灌が始めると同時に厳かな空気が部屋に満ちていたので、皆それぞれ涙を流して儀式を見守っていた。投げかけに応える人もおらず、手を挙げる者もいない。横の父の顔を見ると悲痛な表情で、とてもそれどころではなさそうだ。僕も様子を見守る事にした。
「いやだけど」と思い直した。母が小さい頃、幼児だった僕を風呂に入れてくれていたのだ。風呂場で遊んで貰った記憶もあった。母が旅立つ時くらい、僕が母の手伝いをしたって良いんじゃないか。母も喜んでくれるだろう。それに僕は風呂を重んじる風呂好きだ。僕がやらずして誰がやるというのだ。
というわけで石鹸をつけたタオルで母の足を洗った。喪服とシャツを腕まくりしてスポンジを受け取る。腕まくりして露出した僕の腕と、母の足は同じくらい色が白く「ああ、やっぱり僕の肌は母親譲りなんだな」と思った。病気と治療で痩せてはいたものの、それでも母の足は肌のキメも細かくスベスベなのであった。
足を洗った後、母の眉毛を整えて下さるとの事で見守る。見事な手際で眉毛が整えられ、母の顔の印象も随分と変わってきた。
今度は母の顔に塗って貰ったオイルでタオルでポンポンと馴染ませる係を担った。母の顔に触れると、驚く程冷たくはなっていたけれども、肌の滑らかさと柔らかさといったら母がまだ生きているようだった。母は、改めて綺麗な肌をしていたのだと思った。
この一連の参加型の『湯灌の儀』、やはりどうやったって親族控室はすすり泣きの音で満ち満ちるのだが、それでも僕にとってはとても静謐で心落ち着く行為だったと振り返って明記したい。母にゆっくり語り掛けながら洗い清める事で、自分の気持ちも浄化されていくようだった。自分に何かあった時もああいう営みが人生の最後にあると思えば、一人の風呂好きとして救われた気持ちになるのだった。尤も、それを味わうのは順当にいけばまだまだ先の事になりそうであるが。

湯灌を終えた母はさっぱりとしていた。
肌が出来るだけ見えないように控室との間のふすまを閉じて、母は着替えと化粧をして貰った。
痩せてしまった頬も詰め物で生前の様にふっくらとして貰い、唇に紅を入れて貰うと病気に苦しんでいた母の印象は薄れ、元気だった頃の様子に随分と近づいた。
勿論、この一連の儀式は母の新しい旅立ちのためのものなのであろうけれども、親族である我々への配慮も随所に感じられるものだった。救済、といったら大袈裟だろうけれども、それでも悲壮感は随分と拭い取られたのであった。

広島より父の妹夫妻、つまり叔母夫妻がやって来た。叔母に会うのも久々である。母が入院してからというもの僕が父の代理で連絡を取り合っていたので久しぶり、という感じはないけれども、それでも対面するのは僕の結婚式以来だ。程なくして叔母の娘さん達も到着した。叔母よりもっとご無沙汰だ。幼い頃はよく遊んで貰ったものだが、久しぶり過ぎてどんなテンションで話せば良いのか、すっかり迷宮入り。敬語とくだけた口調が混在する、なんともな感じになってしまった。

前日の打ち合わせの際に斎場の方から「通夜の前に流すDVDのために写真を複数点、用意しておいてください」と言われ、皆で母の写真を出来るだけ年齢が集中しないように用意していたのだが、そのDVDの編集が終わったという事で父と兄と会場のプロジェクターで視聴する。
ゆったりとした、どこか寂し気な音楽とともに花畑の映像が映り、そして20代の頃の母の写真が映し出された。
「こんなのまた、泣いちゃうじゃあないか」と言いながら父がもう泣いている。ナレーションが入り、様々な年代の、様々なシチュエーションの母の写真が映し出される。兄の結婚式で行ったハワイでの家族写真、父とのツーショット、孫を抱きながら嬉しそうな母の顔、父と夫婦水入らずで行ったハワイでの弾けるような母の笑顔、そして最後には娘の七五三の時の静かな、だけれどもとても幸せそうな母と娘のツーショット。
母の幸せな人生と、人を幸せにしてきた歴史と関りが感じられた。けれども、同時に感じられる母の不在があまりに寂しい。こんなの泣いてしまうに決まっているじゃないか。

母が納棺され、通夜の開始を待つばかりとなると控室にもゆったりとした時間が流れる。
互いの近況報告等々が盛り上がる中、通夜後の夕食までまだまだ時間があるのでコメダ珈琲にてあれこれと注文する事に。昼食の際に「斎場で暇になったら皆でコメダでも行こうか」と義姉が言えば兄が「今じゃあ広島にも東京にもコメダはあるんだぞ。全国区なんだから喜ぶ事もないんじゃないか」と返すやりとりがあったのだが、何だかんだ広島の叔母一家は皆、コメダのサンドイッチが食べられる事を喜んでくれているようだった。電話で注文し、受け取りに妻と斎場を出ると雪が降り始めた。
母の通夜でなければちょっとは雪も喜べそうなものなのにな、と思いながらコメダまで歩く。
しかしいざ到着すると、まだ料理が出来上がっていないとの事。成程、電話で指定された時間より20分近く早く到着してしまっていたのだった。
妻がコンビニに行きたいというのでテクテク歩いて向かう。前日と打って変わって時間に余裕が感じられる日なのであった。
コメダで受け取りを済ませ、義姉が車で迎えに来てくれたので一緒に斎場に戻ると、どうも注文したものと商品の数が合わない。
店長さんが斎場まで往復して届けて下さった。物凄く対応が良く、流石コメダ珈琲だなんて思った。
サンドイッチを頬張っていると18時過ぎ。19時に通夜が始まるので受付の準備をせなばならない時分である。

皆で協力して受付をしていると、会社の上司が来て下さった。家族葬とお伝えしていたものの、職場の代表として参列して下さるという。そういう人なのだ。勿論その気持ちが嬉しく、感謝。同時にこのエリア一帯のナンバーワンの上司が参列して下さるという事は、母も息子が勤め先で少しはうまくやれていると感じて喜んでくれるんじゃないだろうかと有難く思った。母は僕の仕事の事をずっと気にかけてくれていたので。
冠婚葬祭は諸々、流儀というか作法というか、ルールがあると思うのだが情けない事に僕は本当にそういうのには疎い。
果たして親族としてうまくやれるだろうかという懸念はあるにはあったが、幸いにしてそこは斎場の方からの説明を受けてどうにか対応する事が出来た。回数が決まっているという焼香も、兄、父、そして僕の順番で進んでいき、義姉に甥達、妻に娘、そして親族とどんどん進んでいった。
参列して下さったごくごく少数の、喪主である兄の務め先の関係の方や僕の会社の上司の焼香が終わった頃だったか、突然僕が会社に入社した頃の上司が来て下さった。入社当初から育てて頂いた方で仕事のみならず、組織の中で仕事をするという事や人との関りについて情熱を持って教えて頂いた恩人である。前述した上司の弟子にもあたる方なので、恐らく上司経由で母の事を知って頂いたのだと思うけれどもまさか通夜に駆け付けて下さるとは思いもしなかったので、驚くと同時に、その思いやりや男気に胸が熱くなった。社内で連絡を回すのは辞去したのだが、それでもやはり日頃お世話になっている方々の顔を見るとホッとする。

通夜が終わり、参列して下さった皆様をお見送りし、がらんとした通夜会場で母の顔を見ていると妻がやって来た。
母に話すでもなく、妻に話すでもなく、或いはその2人ともに向かって母への後悔というか「ああしたかったこうしたかった」と未練以外の何物でもない願望を話していると、また感情の大きな波がやってきて泣いてしまった。妻の前でよく泣く男だ。
どこがスイッチで泣いちゃうかわかったもんじゃないね、と話しながら親族控室へ。通夜ぶるまいの助六をパクつきながら通夜の終了の気配を感じていた。

通夜が終わり一区切りついたからか、少しだけ賑やかな親族控室の様子を肌で感じ、親族同士の会話に耳を傾けながらふと違和感を感じた。いつもならここにいるはずの人がいないような、そんな感覚。「あ、誰か足りないな」とその場の顔ぶれを眺めて「母さんがいないんだ」と実感した瞬間、たまらなく寂しくなった。
これからはこの「一人足りないな」という感覚が当たり前になるのだった。

広島、東京から遠路遥々やって来てくれた叔母一家にはホテルの部屋を予約してあるので、兄と我が世帯の車に分散乗車してホテルまで送っていく事に。妻と娘はそのままホテルに泊まるので、皆がチェックインする様子を見届けると兄の運転で2人で斎場まで戻った。

兄と、ぽつりぽつりと今後の話をした。父はきっと気を落としているだろうから出来るだけ実家に顔を出す旨を伝えると「落ち込む暇なんかないくらい、忙しくさせてやれ」と。やはり考える事は同じだ。きっと、長年連れ添った妻を亡くした父は相当ダメージを受けているはずだから。

斎場に戻り、兄と甥っ子(次男)と3人でテクテク歩いてラーメン屋へ。助六程度じゃ高校生の胃袋は膨れはしないし、兄も僕も適度に空腹なのであった。今池駅近くの鯛出汁のラーメン屋へ。気にはなっていたがこういう機会がないと多分行く事はなかったと思う。が、スープを一口啜ると思わず口をついて出た、「まじか」と。激烈に旨え!
腹も膨れたので適当に菓子とかジュースとか買って斎場へ戻る。誰か泊まり込みで母の番を、という事でつきっきりになるわけではなかったが、甥(次男)と僕で親族控室に宿泊する事となった。ちょっと楽しそう、という気持ちがあった。
風呂なんてホテル並みに綺麗だったし浴槽も自宅のものの何倍もでかい。床はフローリングだしちょっとしたホテルに宿泊するより快適なんじゃないだろうかと思われた。
ソファが大きくて具合が良さそうだったので掛け布団だけ引っ張り出して、ソファで眠る事にした。甥は隣の部屋で布団を敷いて就寝。

様々な瞬間に母の不在を実感した。
皆で親族控室で話をしていたりする際に「どうも何だか一人足りないな」と思い「そうだ、母さんがいないんだ」と周りを見回して「ああ、そうか。今日はお母さんの通夜だった」と思い至る。
お母さん、お母さんがいない事が本当に寂しいよ。