妻の誕生日だったので、仕事の休憩中に自宅最寄りのイオン内にある花屋さんに電話で花束をお願いした。
「可愛い感じで」という非常にざっくりしたお願いだったけれども、大変可愛らしい花束を用意してくださってやはりこういうのはプロに頼むのが一番だな、と実感した次第。
娘を保育園に迎えに行ってその足で花束を受け取りに行き、帰宅した妻と食事に出るところで娘が車の後部に隠しておいた花束を渡す。サプライズ大成功!
想像していたよりも何倍も妻が喜んでくれたのでむしろこっちが驚かされた。
いつも有難う、妻!これからも宜しくお願いします!
母の亡くなった日、母の通夜と日記を書き進めている。母の告別式についても書くだろう。
日記を書くのが習慣化しているのもあるが、記憶を記録化しながら文章にして書きつける事で自分の中で整理して、区切りをつけようとしているのかもしれない。自分の感情に向き合う一番の方法が日記に書く事だと長年の経験で知っている。
けれども今回ばかりは日記に書いたところで簡単に過去のものに出来そうもない。実の母親の喪失というのは本当に大きな事なのだな、と実感している。書いた日記も、読み返しては加筆修正している。絵の具を何度も上塗りして厚くしていくような、そんな感覚がある。
仕事は母の告別式を終え、その翌々日から出勤している。
最大で5日間の特別休暇が忌引きとして使えるそうなのだが、告別式の翌日には区役所で諸々の手続きが一区切りついたので早々に仕事に出る事にした。職場に負担をかけるのも、家で一人でまんじりともせずに喪失と向き合うのもどちらも今の自分には健全でないと思われたからである。
母が亡くなった事を知っている人達からは有難い事に「もう出て大丈夫なのか」とか「無理していないか」等、気遣いの言葉を頂いたけれども大丈夫ではないし、無理をしていないわけではないのだろうけれども、どうにかなっているので大丈夫だろうし無理ではないのだろうと判断している。
一度腰を落ち着けてしまうとゆっくりしてしまう性分なのだ。
折り合いはきっと、つかない。つけていこうと思いながらやっていくしかないのだろう。