また四月が来たよ

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4月になった。
昨年よりも年度の推移を意識するようになったのは明らかに職場が変わった影響であると思う。
2018年度初めてのライブは犬栓耳畜生で。一週目の金曜夜、スタジオ246名古屋での演奏だった。

毎回陣頭指揮をとるメンバーが変わる犬栓耳畜生、今回は僕が指揮を執る回だった。
バッキバキの、スリリングなブレイクと緩急ついたノイズアンサンブルを披露出来るような演奏、を意識した構成でスタジオに持ち込んだものの、良い意味でその通りにはならず想定は今回も大いに覆されたのであった。他人、他者という存在を強く強く意識させられる演奏というのはつまり同時に果てしなく不自由でそれでいて自然であるという事だ。そしてそれがつまり他人と一緒に演奏する意味であると感じる。不自由で、想定外で、それが極々自然であるという自由。
嗚呼、面白ぇ。

明言してしまうと犬栓耳畜生のメンバーは僕を含め誰一人として社会から逸脱する程の『狂人』はいない。人の目や視線を意識せずに行動する事が出来るメンバーは誰一人いないのだ。意識した結果、どのような行動に移るのかはそれぞれの特性に依るのだけれども、人目を気にせずに=意識せずに自我の赴くままに演奏出来る程のブッ壊れた演奏家はいない。こうしてやろう格好良いだろう、うわあ見られている失敗しないかな、何かやってやろうどうだろうか、等千差万別、一人の人間の中でも恐らく様々な葛藤や試行錯誤があるのだけれども、きっと他の3人のメンバーもそれを感じながら演奏している。そう感じる。
そうなってくると普段の自分からしても演奏中の自分というのは「想定外」だ。平時ならしないような事を演奏中はする、してしまう。
興奮しての行動だったり必死に何かだったり、状況を変化させようとするそれだったり色々経験はあるけれども例えそれが早大にスベッたとしても僕はそれは無価値ではない、と思う。それがきっかけで事態はどんどん想定外になっていき、我々表現者は想定外の作品を作るべく自己の想像力と格闘する生き物だからだ。
僕は見られている、と思うと興奮する。僕は他人の視線を感じると緊張する。決してうまくいかないからこそ、続けるのだろう。

ノルウェーから来たバンドは、低い帯域の音も高い方も攻撃的な壁を築き上げていた。
あんな早いピッキングは見た事がないぞってな演奏だった、ギターリスト。

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