クリック。そして基礎練習がもたらすであろう結果。自らへの警告。インプロビゼーションに対する覚書。

連続し、今なお積み重ねられていくものであり、およそ現状最も具体化している表現の一つであるもの。ベース演奏には様々な言語が介在する。それらは他の楽器の演奏者とのコミュニケーションの一様式であり意思表示であり、それらは結局音という信号である。

とかく即興演奏では自らの意思(それは他人の意思を汲み取った上でどのようなリアクションをとるかという事柄も内包する)を速やかに楽器という媒体を通じて発信する事が重要であり、いずれの演奏者も自分の取捨択一の結果(ある局面では選択する事すら必要ない程結果が明確な場合はあれども)がその楽曲に如何様な影響を及ぼすかを考慮して音を出す必要があるのは明らかな所であろう。

この時問題となるのは演奏者の懐の深さと広さそして判断力であるが、瞬発力に磨きをかけた後の問題として我々の前に横たわるのは楽器演奏者であれば誰しも等しく掲げる一点。絶えず前進する事を我々に要求し、広大に広がる音階の中からすくい上げられるのを今か今かと待ちあぐねている。それは引きだしでありそれはそのまま表現力であると断じてしまって差し支えないだろうと思う。

そこに対する求心力を失った瞬間、演奏者を表現者たらしめる要素はかき消え、音楽は完結する。切磋琢磨すべき愛しき瞬間はルーチンワークと化し、時間はただただ残酷に過ぎていく事となる。

我々演奏者は絶えず自問自答し、およそ人間の想像力とインスピレーションが枯渇しない限り広がり続ける(それの速度についてはさしたる問題ではない。少なくともこの場合は)であろう範疇内外に於いて模索するのだ。

即興演奏に必要なのは以上の点から求心力、状況判断、そして表現力である。

表現力の礎を組み上げるのに、そして礎を強固なものにしていくのに手堅い手段として基礎練習があげられる。基礎練習に於いてクリックは我々の良き友、良き先導者、そして伴侶である。

溜息をつきながらでも良い。興奮をおさえながらでも良い。あるいは得られなかった充足に思いを馳せながらでも良いがクリックのスイッチを入れる事は、そして楽器を手にしてクリックが律義に刻むリズムにあわせて鍛練を行うのは決して無駄ではないのだ。それはあるいは具体化されないかもしれないし、何人にも(可能性としてはその本人でさえも)意識されないかもしれないが、確実に血となり肉となる。

さて、今夜もクリックのスイッチを入れよう。ライブ前夜だろうとしても、そこにはリズムが存在するのだから。

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