深夜徘徊という行為は、社会的には不健康なれども精神的、肉体的には非常に健康的で有意義な活動である。
ローリングストーンズファンの前飼い主がキース・リチャーズから名前を頂戴して名付けたビーグル犬を買っていたのだけど、夜の散歩は僕の担当だった。はじめは近所をぶらりと回ってくる程度だったのだが、日が沈んでからの散歩という行為に味を占めてからは散歩もエスカレートし、距離はどんどん伸びていった。
僕と愛犬キースは共にどんどん未開の地を開拓していったのである。
彼がこの世を去って久しいが、僕は未だにそういう行為を続けているわけだ。
とは言え、うちの半径数キロが未開の地だった当時と比べ、今の僕はある程度の土地勘を有している。
徒歩、自転車、そして友人の自動車の助手席から眺める景色が漠然と道と道を繋げ、ここを歩くとあそこに出るというような経験則が構築されてしまっているのだ。
では昨夜の僕はどういった観点で深夜徘徊を楽しんだのか。ある意味で過去を振り返る行為であり、ある意味で幼い頃と同じ『探検』感覚で僕は学区内(この表現自体が成人男性の口から出る事自体、極めて稀である)を徘徊したのであった。
自宅とバイト先、スタジオとライブハウス、或いはそこに友人宅を含んでもいい、およそ限られた場所にしか移動しない現状の生活様式では、僕の学区内を移動するという事はほとんどない。自宅を出たらそのまま地下鉄の駅へ向かう事が大半を占め、僕の自宅より北側へ行く事等皆無と言ってもいい。
その北側というのは、僕の通った中学校があり、僕が友人と駆けずり回った社宅郡、公園がある。
昨夜はそこをゆっくりゆっくりと歩いた。
一時間程度は歩いただろうか。
遠回りに次ぐ遠回りを重ね、気になる道はとりあえず歩いてみ、そして縁のある場所へ向かう。
幼い頃友人と喧嘩したマンションは姿を変えずあったし、深夜の母校はキースの散歩をしていた頃と変わらずどこか不気味で、そして本当に静かな住宅街が広がっていた。
しかして、時の流れを感じもした。
同級生達が住んでいた社宅はカーテンすら張られていない空き部屋が目立ち、中には建物が新造されて別の建物になっているものさえあった。10年という歳月をかけて少しずつ少しずつ変化していった我が学区。
今日の画像はボタン式信号のスイッチ部分。
昔はもっと味気ない黄色のボックスだったのだが、ふと見るとこんな可愛らしい姿になっていた。
コメント