バンド活動へ、よっこいしょこらしょ

母が亡くなり、喪失感を誤魔化すように忌引きも早々に切り上げて(後々、上司に「舟橋君、ほとんどの人は忌引きでめいっぱい休むよ。無理しなくていいよ」と言われた)仕事に復帰、妻の誕生日を祝ったり、クリスマス直前には付き合いのあるコンビニの店長さんからクリスマスチキンを大量に買い込み、実家で父と甥兄弟と娘と5人で大量の鶏肉を食べたりした。
仕事中に母が亡くなった事を知るお客さんから「舟橋さん、肉親の死というのは受け入れるのには時間が必要だよ。というか時間をかけて受け入れていくしかないよ」と言われ、そうかじゃあ今折に触れてメソメソしてしまうのは無理もない事なのかと幾分か気が楽になった。
想像していたよりもずっと早い母の死というのは、今後僕が生きていく上で何度も考えるきっかけになるだろうし胸を締め付けるだろう。仕方あるまい。

そうやって長い時間をかけて母親の死と向き合っていこうと決めると、では同時に日常生活はそれなりにでもやっていかないといけないなと思えるようになった。
僕の日常=『家族』『仕事』『バンド活動』だ。
家族は僕と同じように衝撃を受け、一緒に立ち直らんと喪失に向き合ってくれていた。有難い事だ。妻のそうした母への真摯な態度と、娘の優しい気質とに僕は随分と救われているのである。
仕事に関してはこの段階で割と腹を括って臨めてはいた(実際、こういう時に必要以上に感情を入れずに臨まなければならない仕事は精神的にもスイッチを入れやすいのであった)ので、では次に僕が注力すべきなのはバンド活動なのであった。
丁度タイミング良く現在参加しているバンドの予定が、ここ最近入っていたので「どっこいしょ」と腰を上げるには丁度良いタイミングだったように思う。

26日は白線の内側で会議兼忘年会。
19時頃新栄に集合して、適当な居酒屋に入ってレコーディング作業の進捗や今後の活動について等々、すり合わせをしていこうという予定だった。何だかんだでミーティングというかほとんど忘年会と化したのだけれども、個人的には実りのある会だったと感じている。ハイボールをかつてなく飲んだせいか、酩酊した。酩酊したけれども真面目に会話は出来たいたという、絶妙な塩梅で着地した夜だった。


28日の夜はパイプカットマミヰズでスタジオ練習。
実は母の通夜のため、練習を一度欠席してしまったためこの日は直後に控えたライブに向けてみっちり練習。
キメの回数が滅茶苦茶複雑な曲(353 3553と3553 3555だ。なんのこっちゃ)を久しぶりにやるぞという事で注力した。
こういう暗記科目的な曲は一度見失うと絶望する事になる。
コツなんてないのである。兎に角、反復。

家庭にしろ仕事にしろ、そしてバンド活動にしろ理解のある人達に囲まれている事を実感する今日この頃だ。
28日は年内最後の平日休みだったので午前中、母が入院していた東部医療センターへ行き、保険金請求のために必要な診断書の作成依頼をしてきた。母の保険証等必要かもしれないと思い、実家へ寄ったのだが父の友人夫妻が母に線香を上げに来て下さっていた。聞くと夫婦2組で旅行に出た事もあるという。そういう間柄の友人夫妻がいるとは初耳だった。妻と僕にもそういう友人夫妻(或いはカップル)がいるように父と母にもそういう友人がいたのだ。そう思うと在りし日の父と母を想像して何だか感慨深いというか、父と母も当たり前に恋人同士で出会って夫婦になり、父と母になったのだなあ等と思う。
昼からは仕事を半日で切り上げた妻とデート。岡崎のカフェにフルーツサンドを食べに行った。
在りし日の父と母が、そうしたかもしれないように。