訃報が飛び込んできたのは4月もそろそろ終わりを迎えようかという時分であった。
何の気なしに眺めていたSNSで自縛ポエトリーういちゃんの訃報を目にした。
鈴木陽一レモンさん(コトナ)が丁寧に丁寧に、恐らくは意を決してであろう、投稿されたそのツイートで僕はういちゃんが少し前に亡くなった事を知ったのであった。
おいおいまじかよ、と思った。思ったものの現実味がない。友人知人の死はいつだってそうだ。僕のような若輩でも年齢をそれなりに重ねていると家族親戚以外の近しい人間の死に直面する事はない話ではないだろう。だけれどもういちゃんよ、あまりに早過ぎやしないかい。
原因はわからないし知らないし知る気もないけれども、あまりにも突然のお別れに僕は実感がないまま、レモンさんにSNSでダイレクトメッセージを送っていた。簡素な驚いています、続報をお待ちしていますというなんであれば送る必要さえないような、そんなメッセージだったがレモンさんは丁寧な返信を下さった。個別に知らせる事が出来ずに申し訳ない、という挨拶から始まるその返信で7月6日に鑪ら場でお別れ会が企画されている事、そこでかつてういちゃんと結成してレコーディングをしたバンドOIAUENで演奏をして欲しい旨、伝えて頂いた。実際OIAUENについてはレコーディング以来動いておらず、何かする気配さえなかったのだがまさかの再集結がこんな形で動き始めようとは想像だにしなかった。
メンバーに連絡を取ってみると既に演奏活動を終了しているメンバーもおり、完全に同じ形で演奏とはういちゃんの不在という大きな点を除いてもならなかった。レコーディングエンジニアとして関わってくれた金森君に声をかけると参加を快諾してくれた。演奏内容は打ち合わせらしい打ち合わせをするまでもなく決まった。ういちゃんの音声データ(金森君が保存していてくれた。これがなければ今回の演奏もままかからなかったであらうからして、金森君のそういう几帳面な所に最大級の謝意を示したい)にあわせての演奏。一発録りのものなので他のアンプ類から出力された音も声に混ざり込んでいるけれども、ういちゃんの声として十分過ぎるものであった。それぞれが何をするか検討して、お別れ会当日スタジオに入り数回演奏をあわせてみて、いざ本番に臨んだ。練習しながら、なんとなくレコーディング当日の瞬間瞬間が思い起こされた。
本番、演奏するまで変に気が立ってしまって緊張とも違うその感じに会場に顔見知りの方も何人かお顔が見えたけれども声をかける事さえもせず、ただただ他の方のパフォーマンスを観たり聴いたり食事をしたり飲み物を飲んだりしながら、そんなささくれだった自分の気持ちに若干の戸惑いを感じた。
正直なところ、演奏が始まる直前、それこそ数秒前までピリピリしたままで音を出しながらは無心になれたものの、レモンさんによる僕達の紹介もバンドメンバーである少年(しょーや)君による挨拶も上の空というかストンと自分の中で着地する事もなく、ただただ演奏が始まるのを待っている状態であった。
これはもう、俺の問題だ。演奏する事で誰かに何かを伝えたいとかういちゃんが遺したこの音源、バンドという形態を人に伝えたい云々、そういう感情は一切なく、ただただ俺は俺のためだけに演奏していた。これで一区切り、だ。
演奏後、この日最後の演目としてういちゃんのパフォーマンスの映像が流された。嗚呼、俺はこの人の音楽や演劇や色々な活動は観ていたけれども詩人としての活動を観るのはこれが初めてかもしれないな、と気付いた。
今まで観てきた彼女の表現の中で恐らくは最も彼女の核心に近いであろうそれを観、この時多分僕はういちゃんの死をようやく現実味を伴って感じる事が出来たんじゃないかとそう思っている。
最初に会った時は孤独部のワークショップの時だったと記憶している。皆の前で公園でセミを食べた話をして、樫山君がその場の戸惑いをどうしたもんかと困っており、僕は手を叩いて喜んだのだった。
僕の作品にも出て貰った。他の参加者と話をしていると視界の隅に指を伸ばして接近してくるういちゃんが映っており、指が僕の顔に触れようとするその瞬間に振り払ったのであった。口の端に触りたくなって、と不思議な事を言っていた。
あまり直接褒めてくれるタイプではなかった。僕が演奏に参加するライブを観た後でも表情を変えずに話しているので僕も気にはしていなかったのだけど人伝えに演奏を気に入って褒めてくれていた事を知ったり、した。
とても頭の回転の早い、面白い人だ。
一緒に物作りが出来て光栄だった。
あばよ、またね。
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