戯曲演奏計画に参加しました。

11月20日(金)、21日(土)と吹上鑪ら場で行われた『戯曲演奏計画vol.3』に参加してきた。
「演劇の人と音楽の人が交流する事」を目的として立ち上がり「演劇と音楽の融合の可能性を探る」企画。音楽人が作る演劇作品だったり、演劇方面から音楽的なアプローチがあったりと普段小劇場ではなかなか観られないような前衛的な作品(?)も観られる舟橋、結構ツボな企画です。
前回はかしやましげみつ(孤独部)作品に役者として出演、その時のブログにも書いているけれども「次回は出品したいなあ」という欲求を抱き、実は打ち上げの時に主宰のやまだ直子さんに直訴していたのであった。
そういう経緯があったので半年後に実際に出品出来るのは大変嬉しく、また「猶更下手なものは出品出来んぞ」という気持ちがあった。アイディア自体はvol.2参加当時に思いついたものと同じで即ち「リーディングを指揮する」。
戯曲を楽譜と捉えリーディングをオーケストラの指揮者のように指揮してオンタイムで演出のまがい物のような事をしてみたら演奏と同じ感覚が得られるのではないか、と考えたのであった。

一般公募とこちらから声掛けをした結果、4名の役者の皆さんと一緒に作品作りが出来る事になった。最初から明確に意図を伝え「作品の内容というよりかはその方法論をきっちりと提示したい」事を話し、何回かの稽古=セッションを経て方法論の確立を目指していく事となった。
当初は役者の発声速度、そのテンポ感も指揮によって制御可能だろう、と考えていたのだけどもさにあらず。リーディングのテンポ感を拍子で区切るというのはそりゃあ当たり前だけど認識の仕方に個人差が出てくる事で、それはもう舟橋痛感しましたよ、リズムありきの戯曲の凄味を。維新派とか台詞一つ一つに至るまで明確に拍子の指示があると聞いたけどそこまで考えないとあの圧倒感には到達出来ないのか、と再認識した次第である。
何度かメトロノームを鳴らしたり役者全員で手拍子をした後に読んでみたりしたんだけどやっぱりどうしても思うようにポジティヴな結果が得られず。メトロノームを鳴らしながらだと何となく個々人のリズム感の中では一定で読んでいるのが伝わってくるんだけど(=BPMを意識した上で発声が出来ている)「とてつもなく不自由」だそうで、まあ、そりゃあそうだよな、これだと発展性がないのではないかと思ったので方向転換。
指揮者が予め制御する、のではなく役者が提示してきた演技に対して指揮者という立場から整合性を持たせにいくように調節を施すのはどうかと考えた。テンポ感というのを「その場の空気感」に任せてしまい、その空気感自体を皆で動かしていって表現の高みを目指そうという発想である。
右手を「朗読速度」、左手を「朗読のテンション」という風に設定し、右手が胸の高さより上にある時は速度アップ、下にある時は速度ダウン、左手が胸の高さより上にある時はテンションアップ、下にある時はテンションダウンという風に指示が瞬間瞬間で判断しやすいようにした。また、発声前に要求を飛ばしたい役者を指差して速度とテンション感を伝えておく事で、次の台詞の朗読開始時点からの指揮者の要求を役者に伝える事も可能とした。一時停止、再開を加えてとりあえずこれだけのサインで朗読をすると、この指示の少なさと「テンション」という言葉の持つ幅の広さ故、良い感じに「予測不可能」な結果になる事がわかり面白く、非常に面白く感じた。即興的な作品作りに於いてはヒューマンエラーは良いカンフル剤となると再認識。
それを踏まえてやっぱり即興で作られていく面白さというのは人間の動物的な部分、表現者の根底の部分を抉り出す行為と結びつくなと思い至り脚本にアドリブで進めるセクションを明記、お客さんにもあらかじめ台詞とアドリブシーンの指示が書き込まれた楽譜を配布する事で「今現在何が起きているのか、そしてどのように”演奏”されているのか」をわかりやすくお伝えする事となった。

二日間、合計3ステージ演奏を行なったのだけども役者4名の内女性陣3名は全ステージ配役を変えた。今回の試みの場合「慣れ」というのは弊害になり得るからである。
それでもやっぱりどこか余裕が見え隠れした2ステージ目を終え、もうサディスティックな行為ではあるけれどもそれでも役者達から「慣れ」と「安定」を奪い去り「表現する事に必死」な状態を強要するために3ステージ目では役者4人を除く全員(お客さん含む)が把握した上で「事故のような暗転」を15~20秒作りだす事にした。
突然予想だにしなかった暗転が(脚本上無理のない箇所で起きたとはいえ)発声し、楽譜を頼りにリーディングを進めていた役者達のリーディングは完全に止まった。お客さんに配布した楽譜にはこの暗転の事を2ステージ目が終わった後に書き加えておいたので、会場中が役者達が「どうする」のか期待していたと思う。
暗転してすぐに暗闇を通じて客席の期待と、同時に役者達の動揺が伝わってきた。だけども彼らは引かなかった。台詞を継いで進行続投。明転するとそのまま、いや確かに暗転前よりも興奮した状態の役者がいた。僕には見えた。
あの瞬間というのは彼らの表現への姿勢が見事に顕在化した瞬間だった。
バンド演奏でいえば楽器の音が急に出なくなった状態に近しいだろう、僕はそういう瞬間にこそバンドマンはエンターティナーとしてその真価を発揮すると思っている。緊張感を与えるために「仕掛けた」突然の暗転は結果的に役者達の気迫を滲ませるものとなった。ショウマストゴーオン。
あの瞬間にはドラマがあったなあ。

さて、舟橋が考えた「戯曲演奏」はどうだったのか。
果たして3ステージを終えて限りなく演奏に近しい感覚を得た瞬間もあったし、全員が全員がむしゃらになって予想だにしなかった高みにもその指をかけた実感はあった。だけれども同時に「演出行為」の凄味を痛感する事にもなったのだった。
これはもうやる前から歴然とわかりきっていた事だけれども速さ、そしてテンションだけでは作品は磨かれない。
やっぱり凄いんだなあ、演出家って。

余談だけれども今回上演した『神の手、生える人々』は結構気に入っている。
以前思いついた「抜かれる鼻毛達の話」を遂に書く事が出来た。また折を見てどうにかしたいものである。

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