ここ数日で強烈に意識するのは、僕ってつくづくわかりやすいものが好きだという事だ。
=難解なものが嫌いだとか苦手であるとかそういう事ではなくて、この場合は単純に抽象的なものよりも具象的なもの、フワッとしたものよりも手触りが確かなもの、あやふやなものよりもはっきりしたもの、不明瞭なものよりも明瞭なものの方に嗜好としていきやすい、という事だ。勿論いきやすい、なのでそうでない時もあるし、後述するけれども抽象的なものやフワッとしたもの、あやふやなものや不明瞭なものでも好みを刺激される事っていうのは、頻度こそ少ないけれども確かに存在する。
ではわかりやすいものが好き、である自分が明確に出てくるのはどういう時かというと、それは僕が作り手になる時に他ならない。アンサンブル中で明快なベーストーンを鳴らす事に数年間は苦心したし(それであるが故に随分と極端な時期もあったと思う)、演劇作品を作る時も起承転結のはっきりした、非常にわかりやすいものを作ると自認しているし、何かを人と作る時もわかりやすいものを求めがちだ。
それがいけない、それらに抵抗を感じているよという話ではない。この傾向って良く言えば、というか極論してしまえばポップな(=ポピュラリティを有する可能性が高い)傾向にあるとも言えるし、自分自身から出てくるものだ、これはもうそういう好みなんだろうと思う。
でもそんな自分の好みを、嗜好を突き抜けて「ああ、これは良い」と思うようなものも確かに存在する。
抽象的だったりフワッとしていたりあやふやだったり不明瞭だったり、それこそアンサンブル中において明快ではなかったり起承転結がはっきりしておらず、わかりづらいものだったりしても心を打つものはある。
そういう、好みとか嗜好を突き抜けて「良いなあ」と感動すると、その作品に畏敬の念さえ感じるのだ。
わかりやすい、とわかりづらい、がどちらが良いとか優劣とかはなくて単純に種類の違いである事を認識したうえで自分の好みを吟味する機会を得た事は(別に何があったってわけでもないんだけどね)、単純に良い機会だったなと思った。
今日?今日は起床後もずっとベッドの上でダラダラ過ごして、それからちょっと出掛けて外食して帰ってきた。
友人達とそれぞれの場所でそれぞれに似つかわしい会話を真剣さと、それと少しだけ頭を使って話したりもした。
気が付けば一日の人との会話の半分以上が頭を使わずにしているものだったりする僕からすれば、今日はしっかりと頭を使ったんだなあと思う。
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