東野圭吾『容疑者Xの献身』その1

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東野圭吾『容疑者Xの献身』購入。
これまた滅法面白い。一息に読み終えるのもナンなので、チビリチビリと読んでいる。現在感じている本作の『文体への旨味』、これは読了してからでは書けないものなので今記しておこうと思う。

条件として
・『容疑者Xの献身』をまだ読み終えていない(中盤すら至っていない)
・東野圭吾作品は本作と『探偵ガリレオ』しか読んでいない。
・読書の傾向として江戸川乱歩、島田雅彦、西尾維新など作者自身の『色』が作品に色濃く反映された作品を書く作家を好む。
以上の点を踏まえた上で本作の文体、噛み砕いて言えば味わいについて論じさせて頂きたい。

短編集『探偵ガリレオ』を読んだ時に感じたのは「ただひたすらに淡々としている」のだなあという点。話の筋は記憶に残るのだが、印象深い文章が一文としてないというか、極端な話、映画の脚本を読んでいるような情報の与えられ方だなあと感じたものだ。
しかし本作を読み始めて感じたのは、一転してその書き方に関する旨味、である。

淡々と綴られていく作中の風景、心理状態が本当に『描写』しているだけでそれであるが故に自分の生活の中の風景と重なりやすい。

先頃読了した西尾維新『きみとぼくが壊した世界』『偽物語』は文体が特徴的であり、エキセントリックな作中人物“しか”いないのでどう足掻いても、どうしたって自分の生活と重なるはずがない。
どこかで見た風景、とか身近にいたかもしれない人物、というのは西尾作品には微塵も登場しない。ただのバス停を描いても、あそこまで現実味がない作者というのは稀有なのではないか。
それに対して東野圭吾の文章から感じるのは、日常生活を冷静な目で眺めて観察して咀嚼して、そしてそれらを冷静に理知的に再構築したという結果だ。
ただただ『描写する』事から生まれる緊張感。僕が最も好まない、何の面白みもないと感じていた文章の書き方の旨味を知ってしまった。
風景がスムーズにイメージできる。恐ろしい程の日常感がそこには香っている。作者も等身大の人間なのだなあ、と思うと同時に作者はそんな等身大の人間をどこか遠くから眺めているようにも感じる。

唯一無比の個性が滲み出た強烈な文体と、無個性と思われかねない程淡々とした癖のない文体。
エンターテイメントとして“だけ”消化できる前者と違って、後者は日常生活にも色濃く纏わりつく。道を歩いていてふと作中の描写と目の前の景色を重ね合わせてしまう。活字から風景を連想できるという事は逆もまた然りで、僕は風景から活字を連想してしまうのだ。

そういう文体は、日常生活にも連れて行ってしまう。

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