探偵小説/ミステリーの歴史に於いて今から約120年前に著された『緋色の研究』が、後進にどれだけの影響を与えたかは愛好家相手にならば語るまでもないだろう。
ドイルがその一連の著作で扱い続けた「風変わりな探偵と聞き(或いは記録)役の助手」という、後の探偵小説/ミステリーに於いては常套句になった主人公ペアは初作『緋色の研究』で既に完成されており、我々はこの作品で文学史上に未来永劫名前を残すであろう「シャーロック・ホームズ」と「ジョン・H・ワトスン」というペアの邂逅に遭遇する事となる。
我々はワトスン博士視点で物事を見、そして奇妙な人物 シャーロック・ホームズについてワトスン博士とともに見識を深めていく事になるのだ。
探偵小説/ミステリーにおいて『ワトスン役』という単語まで使われるようになってしまった程、この二人の役回りというのは普及している。この「比較的凡庸で常識的な語り部」と「才能溢れる反面、社会的には突飛な探偵役」という組み合わせは今尚多くの探偵小説/ミステリーで、否、亜流も含めればそれ以外のあらゆる創作物で目にする事が出来るのである。
文学作品に於いてスタンダードになったこの『形式』に、僕は時折強烈な飢餓感をおぼえる事がある。
今日書くのはそんな僕の飢餓感を満たしてくれた一作。
東城大学医学部付属病院は、米国の心臓専門病院から心臓移植の権威、桐生恭一を臓器制御外科助教授として招聘した。彼が構築した外科チームは、心臓移植の代替手術であるバチスタ手術の専門の、通称“チーム・バチスタ”として、成功率100%を誇り、その勇名を轟かせている。ところが、3例立て続けに術中死が発生。原因不明の術中死と、メディアの注目を集める手術が重なる事態に危機感を抱いた病院長・高階は、神経内科教室の万年講師で、不定愁訴外来責任者・田口公平に内部調査を依頼しようと動いていた。壊滅寸前の大学病院の現状。医療現場の危機的状況。そしてチーム・バチスタ・メンバーの相克と因縁。医療過誤か、殺人か。遺体は何を語るのか…。栄光のチーム・バチスタの裏側に隠されたもう一つの顔とは。第4回『このミステリーがすごい!』大賞受賞作。
海堂尊 著『チーム・バチスタの栄光』である。
あらすじにざっと目を通しただけで物々しい雰囲気が伝わってくるだろう。現役医師である著者が著した本作は医学用語、そして行政用語が頻出し一見物々しく、難解な第一印象を受けるかもしれない。
しかして読み進むうちにそんな印象はなくなり、むしろ著者が物語の進行の妨げにならない範囲で医学用語の解説、医療現場の現状(とはいっても既に4年前の“現状”なのだろうが)を説明臭くならないように、そしてわかりやすく『解説』している事に気がつくだろう。
何であれば小難しい事は頭からすっ飛ばしてもらって構わない。本作品は医療現場の現状に興味のある向き、そして心臓手術やそれにまつわるドラマを期待する向きへの需要は勿論満たしてくれるだろうけれども、本質的には「エンターテインメントを期待するミステリー愛好家」に向けて書かれているのだ、と少なくとも僕はそう感じたのだから。
実際のところ著者がどのような思いで本書を著したかはわからない。けれども僕は、医療現場に身を置いた著者が造詣の深い分野の知識、経験を活かしてミステリーを描き、かつそこに今後の医療現場への問題提起を織り交ぜた、とそう受け取った。
流石医者、医療現場の様子、大学病院内での『政治』、そして人間模様はリアル。この人の人物描写の巧みさって、全部モデルがいるからなんじゃあないかと勘繰りたくなる程、「チーム・バチスタ」をはじめ作中で医療に従事する医者、病院関係者の存在感はリアルである。
本書を上下巻に分かれている文庫版で読んだのだけれども、上巻下巻とここまで印象が変わる作品も珍しい。上巻が「静」ならば下巻が「動」、上巻で積み上げたものを一気に突き崩す、あるいはぶちまけるようなそんな印象。それでいて物語的には全く破綻していないのが素晴らしい。
では何故そこまで印象が違うのかといえば、それはもう探偵役に負うところが圧倒的に大きい。
上巻での探偵役は院長より捜査の命を受けた万年講師、日頃は患者さんの愚痴を聞くだけの不定愁訴外来責任者 田口公平医師。
この人、淡々としてはいるもののそれなりに人情家で、ガテン気質の外科向きな性格でありながら「血を見るのが嫌だ」と外科医への道を諦め、権力争いにも興味がなく昼行灯を決め込んでいる。
この人が関係者に話を「聞き取る」のが上巻のメイン、というか上巻の全てのようなものなのだが、その淡々と何かを積み上げていくような印象が一気にブチ壊されるのが下巻である。
捜査にサジを投げた田口医師の替わりに、と厚生労働省から派遣されてくる役人 白鳥圭輔。もうこの人が登場した瞬間にそれまでの物々しい雰囲気は何のその、この人が全て持っていっちゃう。思った事をズケズケ言い、論理で完全に構築されたその思考パターンはまさしく「ロジカル・モンスター」、その礼儀がなく口調も場にそぐわず、イラつくとすぐに人を馬鹿にする。職場にいて欲しくないタイプだし、友人に持ちたくない人だ。論理の追求のために人格が破綻してしまったタイプ。積み上げたものを笑いながらブチ壊すようなその様は、何ていうかそれまでの作品の印象からはとてもじゃないが作者が登場させるような人物像には思えない。言い方は悪いけれどもどうにもライトノベル的名イメージなのだ。
しかし白鳥が語る「アクティヴ・フェーズ」やら田口に解説する白鳥が展開する『論理』、白鳥、田口ペアの捜査の様子を読み進むにつれ、この人もただただにぎやかすためにこんなキャラクターになったわけではなく、ある種「理にかなった」探偵役なのだと痛感する。
この辺りの腑の落ち方が白鳥を最初は胡散臭く思いつつも認める箇所は認めざるを得ない、と見識を改める田口医師と完全にシンクロしてしまい、ああこの作者は本当にうまいなあと痛感せざるを得なかった。
このエントリー冒頭で触れた「ワトスン」&「ホームズ」だが、本作をただの医療ミステリーにしていない点はまさしくここにある。あまりにもこの二人の印象が強いのだ。ともすれば主題たる「チーム・バチスタ」よりも。
作者もその辺りを把握しているのだろうか、或いは単純にお気に入りなだけかもしれない、本作の「ホームズ」と「ワトスン」はその後の作品にも度々登場するようである。
手術室という『密室』で行われる殺人。それに挑むのは型破りな役人に浮世離れした万年講師。
全くもって面白い「ホームズ」と「ワトスン」である。
爽やかな読後感といい、お薦めの一作。上巻の段階で犯人の目星がたってしまうのはご愛嬌。
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