2024年8月24日(土)は夕方から娘の保育園で開催される夏祭に行く予定があった。
娘の通う保育園は毎年この季節になると保護者や地域の方向けに割とオープンな夏祭を開催している。先生方が提供する出店の料理も割安で美味しいので結構盛況なのだが、今年は娘の友達のママさん達と「これくらいの時間に行きますよ」となんとなく時間を示し合わせて参加する事になっていたので、それまでひたすらに家でゆっくり過ごしていた。
ゴロゴロしながらSNSのタイムラインを何となく遡っていると、ふと友人のアカウントで「お知らせです」と画像が添付されており、白地に文字のみで淡々と記されたその内容に僕は言葉を失ったのだった。
それは、京都在住の詩人chori君の訃報だった。
肺炎による急性心不全で8月20日に亡くなったそうだ。
自分の目を疑った。確かに最近は体調を崩している様子だったけれども、それでも体調が絶好調でないのは最早彼にとってはここ最近平常運転気味という印象さえあって、そして僕はそれによってchori君も死に得るのだという当たり前の事を忘れてしまっていたのだった。
ここ最近、色々な訃報に触れる事が多くなった。
それでも記憶する限り、母の死以来涙を流して泣いたのは久しぶりの事だ。
chori君が死んだ。
いつ会っても格好良くて、操る言葉が軽妙洒脱で「ああ、こういうのが詩人なのか、同じ言葉を使っているというのにこの違いたるや」と言葉に対する意識を痛感させられて、それが絶妙に嫌で。皮肉の一つも言いたくなろうというものだ。
「これだから、詩人というのは格好良くて嫌なんだよね」という僕の皮肉にも「俺以上に格好良い詩人なんているのかい」と間髪入れずに返してくる鋭さを持った男だった。それでいて弱さと愛嬌みたいなのも時折垣間見せてくれるような、見せてくれているようなそんな愛される男だった。
今やどんどん以前を語り合える友人知人が減っていってしまっていく中で、同じ感覚で同じ景色を「あの頃」という共通言語で語れる程に名古屋のバンドを愛するブッカーでもあった。事実、chori君からの誘いで京都に行ってライブをする、というその営みによって白線の内側はその活動を今日まで継続する事が出来た。声をかけてくれるイベントにしても毎回、良い出会いの場を貰った。なあchori君、今度俺達、新しい音源を作ったんだ。その自主企画にchori君が引き合わせてくれた立川dancingさんを呼んだんだぜ。
「今年中、は難しくとも今年度中、にはまた誘わせて貰うよ」「有難う、待ってる」というやりとりが最後の会話になってしまった。結局、何だかんだであれから1年近く経ってしまっていた。音源が出来て自主企画を開催して、僕に子どもが生まれて落ち着いた頃にはこちらから連絡して新しい音源を携えてVOXhallの扉を開ける。描いていたそんな可能性の中にchori君の姿は共存し得なくなってしまった。PUBVOXhallのカウンター前、ピクルスを肴に酒を飲みながら目を細めてライブを観ている彼の姿を見る事も、もうない。
最後に京都に行った時はchori君のバンドと対バンしたのであった。
彼は共演者として実に油断ならない強敵なのであった。
強靭な詩人であるchori君は、同時にライブハウスや音楽に対する並々ならぬ愛情とリスペクトに溢れたバンドマンでもあった。
かしやま君(白線の内側/あたらしいまち/孤独部)とchori君は、演劇人と詩人という『ことば』を使うジャンルによる親和性をみとめられて何だかんだで結構共演する機会が多かった気がするのだけれども、たった一人で板に立ってマイク1本、演奏もなしでステージから放ってくるスタイルは物凄く衝撃的だった。あんなん確信が滅茶苦茶ないと出来ないんですよ。
その後、音楽家とユニットを組んで音楽と言葉で殴り掛かってくるスタイルに切り替えても彼の自信に対する確信の深さはますます深くなっているのが明らかなのであった。『自分自身』があるから色々な事が出来たんだねと思っている。
chori君とは別に「やあやあ写真撮ろうぜ」という関係でもなかったので最近の写真さえなかったけれども、過去のアルバムを振り返ってみたら唯一、同じフレームに収まっているものがあった。
なあ君、会話していると結構「同い年だしね」みたいに言ってくれてたけど、今回の訃報で厳密には同い年じゃない事がわかって僕ァ「やっぱりそうか」と思ったよ。でもきっとchori君は何となくそれさえ踏まえて『同い年』扱いしてくれていた節があったね。多分、同期というか、そういうニュアンスだったんだね。