結局僕が尊敬する物書きっていうのは頭の中を「ホラこうですよ」と文章で表現して、多くの人間に共感は得られなくとも「そういう事か」と理解させる事ができる人間なんだろうなあ。
僕にはそんな文章は書こうとした事がないし、何より書けないのでこういう文章になっている。僕という人間はこのblogを読めばわかって貰えると思っている。
文章、内容、行間、句読点、その位置、反復、言い回し、etc.
「自分がどんなものか書き付けておくために整理しないまま勢いで書いてしまう」というスタイルを選びつつ、前述の尊敬する物書き達への憧れを込めて書いた文章がこういうものだ。
以前ある人に言われた事がある。僕の日記というのはどこからどこまでが本音で、どこからどこまでが冗談で、どこからどこまでが嘘で、どこからどこまでが「この人は隠したいのだろうけど滲み出てしまっている」的な文章なのかわからない、と。
日記という文学は実に難しい。自分自身への記録という概念は公開される事によって喪失された。今や日記は「自分はこんな生活を送り、自分はこんな思想を持っています」という自己紹介、自己顕示めいたものになっている。勿論悪い意味ではなくてね。
日記を公開する人達の中には多くの共感、多くの反感、そして奪ったり奪われたり、言葉と論理の奪取劇、最終的には人間模様を求める人もいるだろう。
僕が今まで目にしてきた人の日記というのは共感できるものであったり、反感を抱くものであったり苛々したり悲しんだり、喜んだり笑ったり、和まされたり嘲笑を浮かべたくなるようなものだったりした(つまり僕は他人の日記にそこまで一喜一憂する人間なのだ、とどのつまり)。
だけど文章を文章として、純然たる「表現」として考えた時、その表現技法に感じ入ったのはただ一人。あの人の文章は実に美しかった。
リズム、行間、言葉遣い。読んでいるうちに自分の日記がトゥーマッチなものだと再確認してしまったものなあ。
その人の日記が美しいのは、きっとあの人が「読まれる」という事をそこまで意識していないからなのかもしれない。
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