ものを作るという行為


最近は「ものを作るという事」についてよく考える。

嘘だ、ずっとずっと考えてきた。時に漠然と、時に緻密に、時に真摯に、時に適度な距離感で、時に投げやりに、ずっとずっと考えてきた。
作るという行為そのものについて、作るという過程について、作ったその先、作ったものがどこに何をもたらすか、作り続ける事、そのために必要な事、それの楽しさ、それにまつわる煩わしい諸々、何かを作ってそれを人に提供する、披露する人間として当たり前な程度には考えてきたつもりだ。
そしてその都度、その時の自分に相応しい、相応しいと思える/思いたい、その時の自分を鼓舞したり奮い立たせたり、時には一息つくためにちょっとだけ甘やかしたりするために、その時なりの答えを出してきた。

ここ最近はだがしかし、もっともっと根本的な「では何故俺はものを作るのか」という事について自分の人生と照らし合わせて考えている。動機、というか目的というか、そういう類の話。
そこで思い返す今まで自分が作ってきたもの達。
幼稚園の頃に作った紙で作った怪獣は自分が楽しく遊ぶため、小学生の頃に勝手に作った壁新聞は自分が面白がるため、中学生の頃に書いた小説は思い付きを具現化するため、高校時代に作ったバンドはやってみたかったから、大学卒業の頃に組んだバンドは気のあう仲間と楽しく遊ぶため、そのバンドで作った壁新聞は音源は自分達の表現欲求に忠実にあらんとするがため、そのバンドでプレスまでして作ったアルバムは自分達が作ったものをもっと良い品質で人様に「自慢」するため。これはその後も何度も繰り返した。その時一緒にものを作った人間達との「どうだ、俺達こんなに良いものを作ったんだぞ」という自慢だ。28歳の冬に作った演劇作品は自分の頭の中を、いや人生を、その時の生き方を人の眼前で叩きつけるために作った。

結局、僕は僕のためにものを作り続けてそれを面白がって楽しんでいる。
惰性で続けた事も時にはあったかもしれないけれど、そういうのは記憶に残っている限り、僅かな回数ではあったけれどことごとく失敗した。
人は自分の表現欲求が一定以上に高まると何かを作り、それを人前にて晒す。
評価や結果を気にして作るものよりも欲求に忠実であり続けた方が僕の場合は結果的に良いものを作った、と言えるだろう。それが評価された、されるは別の話として。

だから僕はものを作り続けるのだ。
作る事が目的ではない。やりたいから、やるのだという当たり前の結論に至った際にその力強さに思わず顔が綻んだ。

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