餃子にみる諸行無常

2016_07_21_001
世界で一番好きな餃子(異論は認める、そりゃあ俺だって世界中の餃子を食べたわけじゃあないからネ)は、やっぱりおばあちゃんか大将が焼いた方が旨いってもんだ。
この餃子とあの類を見ないラーメンが食べられなくなったら、と思うと恐怖でしかない。一番好きな食べ物(母親の手料理を除く)が二度と食べる事が出来なくなった身からすると相当な絶望を味わう事は疑いようがないと思っているわけだが、実際のところ長く生きるというのはそういう事なのかもしれないなと半ば覚悟は出来ている。
だってそうだろう、たかだか32年生きた程度で逢わなくなった友人はごまんといるし「君とずっと一緒にいたい」と思った女性とは何度かの別れを経験した。「このバンドがずっと続けば良いな」と思ったバンドはあるバンドは解散し、あるバンドはコンスタントな活動が難しい状況になっている(普段は活動を継続しているバンドの喜びの方が勝つけれど、それでも度々センチメンタルになったりするよ)。

ずっと変わらないもの、不変なものなんてないんだ。
これは32年生きてきて一番知りたくなかった事実の一つだ。
自分が憧れたテレビに出ていたあの人は自分より先に死ぬし、自分よりずっと年下だっていうのに自分より幾許かセンシティヴだったあの娘さんは死んでしまった。ずっと切磋琢磨していくもんだと思っていた友達のバンドは活動のペースを落とし、かつてのバンドメンバーは今のバンドで楽しそうに活動を続けている。好物だったラーメン屋はなくなってしまったし、僕も白髪が随分と増えた。
そう、誰かにとっての僕も「変わったもの」の一つだろう。
替わって(誤字では、ない)いくものが多い中で数少ない変わらない関係の人に言われた「人間というのは自分の知らないところで物事が変わっていく事が許せないんだよ」という言葉が今更心にズンとくる。あの時僕は変わった側、として言われていたけれども、当たり前の事だけれども僕からすれば変わってしまった事も沢山あるし変わってしまった人も沢山いる。

けれども特にご飯が食べられなくなる程とか、涙が滲んだりする程何かを思うってわけでもない。ちょっとした感傷を感じたりはするけれども、その程度だ。
変わらないものなんてない、だなんて当たり前の事なのだから。
それでも変えたくないものを変えない努力はしているからこそ、抱ける諦念なのだとも思う。
変わる快感もあれば、変えたくない執念も同じくらい尊いもののはずだ。

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