『メランコリア』を観た。

ラース・フォン・トリアー監督の『メランコリア』を観た。
この人が『ドッグヴィル』の監督だと知ったのは「観るぞ!」と決めてからだった(ちなみに『ドッグヴィル』の感想。もう6年も経ってる、観てから)。
キルスティン・ダンストはアメイジングじゃない方の『スパイダーマン』シリーズや(サム・ライミ版もなんだかんだで好きだ)『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』で観たけれども、好きな女優の一人。顔が良い。あと妙に浮世離れした目つき。なんだか下卑た目線で眺める事を拒絶するような、そんな美しさがある。
「ちょっと気になるなこの映画」を「観てみようかなこの映画」にするくらい、求心力のある人だ。

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その日はジャスティンにとって、人生最高の1日になるはずだった。マイケルとの結婚パーティーは、いま、姉クレアと夫ジョンの豪華な邸宅で盛大に行われている。しかし、皆の祝福を受けながら、ジャスティンは激しい虚しさと気だるさに囚われていた。何かに絡みつかれたかのように、自らの感情をコントロールできなくなるジャスティン。そして、パーティーは最悪の結末を迎える。憔悴しきったジャスティンが、クレアとジョンの邸宅を再び訪れた際、惑星メランコリアは地球に異常接近していた。地球との衝突を恐れて怯えるクレア。しかし、ジャスティンはなぜか心が軽くなっていく感覚を覚える。彼女には全てがわかっていたのだ。そして、メランコリアが地球に最も接近する夜、ジャスティンはクレアたちと共に、その瞬間が訪れるのを待ち構えていた。それは「世界の終わり」が訪れるかもしれない瞬間–。

端的に言えば、世界が終わってしまう映画。
そういう映画は今まで何本もあったけれども、その中のどれともこの映画が違うのは超濃厚な家族愛もなければ終わりを免れようとする美しき生命の躍動もへったくれも、主軸に据えられていないところだ。
端的に言えば「ああ、世界終わってもいいな」って思えてしまう。主人公に感情移入して観ちゃってると悪あがきする人物達が滑稽で、愚かしく見える。奇跡は起きるよ、諦めなければ、みたいな大ドンデン返しは起こらない、というかいらない。
もう皆死んじゃうんだよしょうがないじゃん。みたいな気持ちになってしまう変な映画だ。

主人公ジャスティンはどこか神がかった能力というか、超常的な力を持っていてそれであるが故に恐らくは精神疾患を抱えている(この描写が滅茶苦茶巧い。流石鬱病の監督に鬱病で苦しんだ女優)。
十二分に幸せを堪能して良いはずの結婚式では徐々に具合を悪くしていくし(どこかのレビューサイトで”主人公は世界の終わりを結婚式の最中に知覚した。母親も同じタイミングでそれを知覚しており、だから二人とも同じタイミングで入浴したのだ”みたいな解説を読んだけど、成程と思った)、結局結婚もご破算になっちゃうわ仕事も失うわ、自分一人ではタクシーも乗れなくなっちゃうわ歩けなくなるわ、大好物のミートローフを食べても「灰の味がする」って泣き出しちゃうわ、もうこの辺キルスティン・ダンストのこんな姿が見られるとは、って驚いた。
お風呂に一人で入れなくて、片足を上げる事もままならず赤子のように泣くキルスティンを観ていて胸が締め付けられるようになった。
で、惑星メランコリアがどうやら地球に激突するよってわかり始めたあたりから美味しそうにご飯も食べるし目つきもしっかりしてくるし、それに対してそれまでは落ち着いていた姉がどんどん冷静さを失っていくし(そりゃそうだ)、この姉妹の対照さって、でもそりゃそうだよなあと思っちゃうのが怖いところ。
鬱病で苦しんでる人からすれば世界が終わるってなったらそれは「救済」になるのかもしれない。全員が全員そうだとは決して思えないけれども、この映画を観てる限り監督はハッピーエンドのつもりで作ったんだろうなあ、とそう思った。
あ、でも待てよ、主人公が世界の終わりを知覚してから具合を悪くして、どんどん行き詰ってでもいざそれが近付いてきた時に落ち着いてそれを迎えるっていう流れを考えると、これは人が「死」を受け入れるまでの映画なのかもしれないなってなんとなくそう思った。

冒頭の「映像美」然とした映像もクラシック音楽とリンクしたキルスティン・ダンストのヌードも10年後には忘れちゃうかもしれないけれども、この映画から感じた妙に静かで、それでいて優しい気怠げな「憂鬱」とその手触りと、この映画の存在だけはずっと心に残るんだろうなあという、そんな気がした。

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