反骨心を持って演奏に臨む

新幹線の中でこれを書いている。
大阪から名古屋に向かって疾走するこだまに乗っているのだが、新大阪を出て15分で京都に着いた。
やっぱり新幹線、滅茶苦茶早え。

今から1時間前は扇町para-diceにいた。
本日は白線の内側で愛すべきpara-diceに乗り込んだのであった。嗚呼、扇町para-dice。大阪の我らがホームよ。白線の内側一同、足を向けて眠る事は出来ない(寝るけどね)くらいお世話になっている。
定期的に声をかけてくれ、かつ毎回素晴らしいバンドとの共演の機会をくれる。終演後のやりとりでは毎回「良かったで」とか「素晴らしいな」と褒めてくれるものの、毎回刺激的な共演陣の演奏を目の当たりにしているもんだからその言葉の裏には「まだやれるだろもっとやってみろ」という激励が込められている事は明らかである。どうにか「参りました」と言わせたいのだけれども、まだまだだなぁ。そういう強気な言い方をするのであれば、ひっくり返してやりたいライブハウスがあるっていうのはとても面白い事である。
何のためにやるのかっていうのは演奏に臨む度、ふとした瞬間に折に触れて思索するけれども(今回の旅ではリハーサル後に銭湯で湯に浸かっている時にふと去来した。『俺は何故、家族と過ごす休日を脇に押しやってまで、また多少なりとも使うもの使って遠く離れた大阪に来てまで、演奏をするのだろう』と)、一番の根っこにある動機の上にある幾つかの理由の一つがこういう負けん気みたいなものだ。いや、違うかな、どちらかと言うと僕はそう思いたい。どうせ色々なものを賭して演奏するなら余計なものかもしれないけれども色々なものを『演奏の動機』に突っ込んで演りたい。思い込みでも良いのだ、そういうので自分自身の演奏が拡大、加速、深化するのは自分が一番良くわかっている。他人と場所(そして重ねてきた時間)に対する愛情を拡大して注視して反骨心だと勘違いするようにして、やる気になるってんなら安いものでしかない。誰も不幸にならないしね。後腐れもないってもんだ。

こういう自己暗示から始まって自己暗示で終わらなくなる精神的なカンフル剤、効果覿面な体質で良かったと思っている。
今日も楽しく演奏出来た。破壊(と崩壊。反省しきり)と構築、奮起がそこにあった。ドラマチックだな、と手前味噌だけれども思ったもん、ごめんね、きっと面白かったよね。

気持ちは次の演奏に向かっている。
もっとやりたいなあ、と思う。

コメント