憎悪さえ感じる話

ゆらゆらと立ち上っては消えてゆく靄やどこにいたって居心地が悪そうでだけれどもそれを主張する事さえしない/出来ない女の子のような儚くて美しいものにはどだいなれやしないって随分前から気付いていたけれども、そうさね、僕は僕自身の肉体の確定された感じであるとか、もう物凄い生活感であるとか杓子定規にしか世の中を見れない感じとか、結構疎ましいなって思う時ってあるわけなんですよ。
例えばの話。不確定で質量さえないような霧っていうのは森の中を流れる時そこに樹木が生えていようとなかろうと我関せず、触れているのかいないのかの距離感でそれらの間を行き渡って、遂には森全体を覆ってしまうとしようじゃあないか。それに引き換えこの俺は森の中をあっちにぶつかりこっちにぶつかり、木々に真正面から愚直にぶつかってはその存在に改めて気が付いたようにハッとして、あっちへバタバタこっちへバタバタやかましく走り廻る無様な生き物のようであるよ。
そういう霧のような存在は僕が見ているのとはきっと違った感覚で世界を見ているし違った感覚で物事を考えている。
そうであって貰わなくちゃあ困るのだ。憧れさえ抱けやしない。

そんな非常に実在的であって肉体性が物凄くある(思えば自分の体臭とか気にするのって、逆にそういう不確かなものに憧れるからなのかもしれないね)僕は今日、バンドの練習に勤しむ一日を送った。
お昼からスタジオでゴリゴリとベースギターを弾いて自分の音をバンドアンサンブルに馴染ませる努力をし、馴染んでいく過程を興奮しながら実感していた。ああもう、音でさえも僕は実在性が物凄いのである。
アイデンティティという言葉がある。自意識ばかり見つめてきた10代を送った僕からすると信じられない事に、これが確立出来ない方もいらっしゃるそうなので結局人間は自分にないものを欲しがるように出来ているのかもしれない、云々。
兎も角アイデンティティというのも考えものである。確立出来ていないとさ、何かと動き出せなかったりする癖にそこばっかり見ていると自家中毒気味になったりして途端に「存在」としては鮮度が失われていくような、そんな感覚に陥らせてくれるからだ。
自分のアイデンティティばかり見つめて、見つめ続けてきて育んで日々の変化をこうして記録しているわけなんだけれども、そうだね、たまにはこう「他人から色々と投影されやすいようにもっとフワッと?フワッとしていた方が口当たり?口当たり良いんじゃあないのか」だなんて思う。こう書くと僕は自分自身を「はい凄く個性的ですー自意識確立してますーどこにいたってー僕はー僕ぅー」みたいに言っているように感じられるかもしれないけれども、そこまでの話ではなくてもう目くそ鼻くその話で言えば「耳くそが出ないんじゃないかコイツは、くらい霧か霞かみたいになればもっと人はそこに自己の求める何かを投影出来たのかもしれない」っていう、つまりはそういう話である。

無い物ねだりが出来るから、人生は豊かなのかもしれないね。

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