楽しいサイクリング

2月最後の日は新栄CLUB ROCK’N’ROLLの座り公演にて舟橋ソロ=未確認尾行物体で出演。
出演者が物凄い人数、かつ出順はその場の空気による自己申告や指名制という前例がないイベントだった。
皆、歌が巧い。深夜までお客さんもしっかり残っていて、そりゃあそうだよなっていう良い雰囲気。
僕は今回は宮沢賢治の「フランドン農学校の豚」をかしやま君(孤独部)と伊藤誠人君とやった。
終演後、実に参考になるアドバイスを先輩から貰って、今度から早速活かしていこうと思う。やはりTPOだTPO。

今日、親しい人が口にした「貴方がどうなりたいかわからない」という言葉。
悪意も否定もそこにはなく、純粋な事実として向けられた言葉に僕は思わず「うん、そうだろうね」と答えた。
だって僕自身、わからないのだ。
この先、どうなりたいかだなんて考えようとした事さえほとんどなかったと言って良い。その時々によって答えは出せたりしたのだろうけれども、つまりそういう事だ。
改めて時間をかけて僕は「自分がどうなりたいのか」考えてみた。
結果、どうなりたいかというよりかはどうありたいか、に思索の方向は動いていった。どうなりたいか、は明確な答えはない。
例えば10年後にどうなっているか、目標を据えてそれに向かって動き出して1年、2年、3年…と時間を重ねたとして、その過程で旬なものを選択していった結果、当初設定したその目標自体が変わっていそうだ、と思った。
去年一年で僕は変化する事のネガティヴな面と、それ以上の面白さを知ったからだ。去年一年で僕におとずれた変化というのは決して僕の心安らぐものではなかった。まず自分を疑って「自分って良くもなく悪くもあって等身代なんだな」とやっと、29年間でようやく思い知る事が出来た。それってやぱり、それまで自分自身に妄信的になれていた人間からすると辛い事、でもそれてちゃっぱり甘えだけどね。
後々、内側から吹き出した疑問や信頼の失墜って、きっと外からも反響してくるもので、当然それがあった。最初はその大きさに驚いたものの、耳を塞ぐでもなく、その頃には僕は「変化も楽しいもんだぞ」だなんて思い始めていて。
結局何が一番罪悪って何かをしようとする際に自分自身に素直でないって事で、じゃあ信念らしい信念も、人に伝えたい生まれ持った何かも特になく、ただただ「面白い事を!」と渇望してきた僕は面白がるために、楽しむために後悔する前に次にそれを活かす事、そしてそれを楽しむために変化する事に対して肯定的である事だけは自分で決めようと思ったってわけ。手を変え品を変え、っていうのはそれだけできっと苦労する事だろうけれども本当にそれが必要ならばやるべきだ。

ただ勿論、この書き方ね、一番罪悪、とか素直、とか散々書いておいてナンだけども何が罪悪って判決を下すのは自分だし決心は自分自身で決めてるし何が面白い、何がつまらないって僕の感性で動くわけだからはたから見た際に僕のその感じってただの妄執だったりそういうものになってるのかもな、って事だけは意識しておかねば、自覚しておかねばならないなと思った。
勿論、生活っていうレベルでは目標はあったりするけれども、何かを作る人間としてはもう兎に角「楽しく楽しく、まずは自分が楽しく、それで人が楽しく」っていう程度のあり方しか言葉に出来ないのかもな。

非常に良いエクスキューズを貰ったと思っている。

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