活字を読むとダイレクトに影響を受ける。

こんな特に何を書くような事がないような日でも「習慣」として日記を書く価値はある。
すなわち「自分は仕事へ行き食事をし睡眠をとる、というルーチン以外にも何か意図的に継続している事が一つはあるぞ」と思えるという事。それだけでも毎日のようにキーボードをタイピングする価値はあるという事だ。

財布を落とした。
仕事に行く前、財布が見当たらなかったあたりから嫌な予感はしていたけれども、「財布を落とした」と確信してからは生きた心地がしなかったというのは言い過ぎだとしても、焦燥感に駆られたのは揺るぎようもない事実である。
駄目元でとった「昨夜訪れた場所に電話してみる」という行動が僕に快哉を叫ばせたのは全くもって運が良かったとしか言いようがないだろう。「お預かりしておりますよ」。全く、本当に耳に心地良い響きだった。
「お預かりしておりますよ」。
何度反芻したって良い言葉だ。
更に良かったのはその財布の中身が、現金もそっくりそのまま残っていたところだ。自分の運の良さに感謝した。

本を読んでいる。
自分の低俗さといったりきたりする精神の高潔さ(高潔でありたい、とは思っている。それが例えどれだけ自分本位の判断基準だとしても、だ)に辟易とする時も少なくはないけれども、けれども結局何をどう、豊かに感じるかという点が大事だ、と思っている。そして卑小さに等身大の人間の魅力を感じるようになった点は僕をますます卑小で低俗にする事に一役買っているだろう。
だけれども、僕は僕を肯定し続けるだろうと思う。

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