表現活動には求道者として自己実現の要素も内包する。

先日は鶴舞DAYTRIPにて埼玉のバンドであるロクトシチのレコ発企画に犬栓耳畜生で出演。

今回のコンダクトは森野君。カヴァー多目でお送りした。
森野君は言葉少ないながらも面白い(funnyでありinterestingである)人だから今回のコンダクトも良いものになるはずだったろうに、個人的にはバンドの演奏に貢献出来ずに他の3人のテンションにおんぶにだっこになった形になってしまった。どうにか打破しようと試みたものの最後の最後までなかなか一線を超えられず...ここ最近の犬栓耳畜生での演奏では一番閉ざしたものになってしまった。
観ていてどう映ったかはわからないけれども、やっぱりメンバーからの投げかけの部分に応えきれないのはネガティヴな焦燥感が募る。有難い事にバンドとしては評判も悪くはないようなので(けれども究極的には音楽の評価というのは演奏者からすればやはり自己実現を伴いたいものである)個人的な反省をして今後アップデートをしていく材料となったな、と腹の中で落ち着けてはいるのだけれども、実際バンド活動を10年以上続けてきてもこういう事があるから本当に音楽を演奏するという事は面白い。
実際何が原因でクローズドな演奏になってしまったのか、心当たりは幾つかあれどもそのいずれも過去の経験から鑑みるに決定打になるものではないのだよなあ。今までその要因を備えた上での演奏でも良い演奏をしてきた、というものばかりなのである。
結局、ネガティヴな要因を潰す事よりもより良いもの、良いものを目指す方向で思索した方が建設的なのでは?と毎度お馴染みの結論に至ってしまうんじゃあないか、とそう頭の片隅では思っている。
繰り返したくはないものだが。

演奏直後から感じていた憂鬱と少しばかりの悔いだけれども、ロクトシチの演奏を観ていてそんなものは消し飛んだ。
心技体が一致すると音楽は、バンドマンはかくも強烈な存在足り得るのだ、といわんばかりの演奏。もう完全無欠に格好良い。

2018_07_22_001
この日の思い出の一枚。しまらねえ顔だな、俺な。

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