2020年最後の即興アンビエント/ノイズセッション

誤解を恐れずにいうと『練り上げた曲を練習を重ねて丹精込めて人前で演奏する行為』と『完全な即興演奏』を比べたら、後者の方がよりパーソナルな部分が出やすいというか僕個人の文法(演奏なのに文法とはこれ如何に)は色濃くそこに出ている気がするのだ。
かといって前者が嘘っぱちかというとそうではなくて、例えばバンドアンサンブルの中での僕は文法こそ素のものではないけれどもそれを駆使する筋肉は紛れもなく僕そのもので、要するに何が言いたいかというと他人と演奏する際はその演奏に臨むスタンスによって、使う脳味噌や筋肉が違うという事である。

そして相当に恥ずかしい事を打ち明けてしまおう。
即興で演奏していると「もうすぐガーッと盛り上がるところだな」みたいな気持ちが無意識にあってそこに向かって熱くなっていく、偽物じみた感情的な昂りは自分の中に生じ難い。だから、羞恥心という観点ではストレスは少ない。僕のような修行の足りない俗物はただでさえ人前に立って演奏する時に「観られている事」を意識し過ぎて格好をつけようとしている自分がいて、それに自分で気がついた時には著しく気持ちが萎えてしまうのだ。自分の俗っぽさ、そしてそれであるが故にきっと評価されないだろうというそれこそ俗物極まりない承認欲求を自分で自分の中に見出すのはこれでなかなか厳しいものがある。
これというのも『心の準備』をする時間があるからだろう。

それに引き換え、と論じてしまってわからないけれど即興はどうなってしまうかわからない分、パフォーマンスとしての感情の昂りの演出なんてする余地はそこには少なく、それを自分で感じて恥ずかしくてたまらなくなるという事は少ない。ゼロではないけれども。
格好をつけて格好良くなれれば良かったのだ、と思う。格好をつけて格好良くならない自覚があるもんだから恥ずかしくなる。これはいけない。
究極、演奏をする際には観られている自覚なんて僕には不必要な事なのかもしれない。或いは『こうありたい』という美意識も不要かもしれない。いやもっと簡単に格好良ければ良かった。

話の収拾がつかなくなった。
さてそんな事を思ったのも即興演奏(演奏は毎回同じ事にはなり得ない、という意識があるのである意味全ての演奏行為は即興演奏である。この場合の即興演奏というのは瞬間的な作曲行為を他人と発音しながらする、という意味である)に臨む機会があったからだ。

12月5日、前日の犬丸ラーメンの公演にて痛めつけた筋肉の痛みを抱えながら、友人 梶藤君(26時)に誘われたセッションに参加した。
藤ケ丘のライブバーにて定期開催されているイベントに梶藤君が参加するバンドで出演予定だったところ、予期せぬ事態によりそのバンドが解散してしまったがため「舟橋さん何かやりませんか」と声をかけて貰った次第だ。
折角やるからには面白い事を、と梶藤君と他に声をかける顔ぶれを出し合ったりもしたのだが、最終的には宮代君(ixxxxx!)が参加してくれる事になり、彼と一度手合わせしてみたかった僕としては「しめしめ」な顔ぶれとなったのであった。

当日は簡単な打ち合わせのみで演奏に臨む。テーマはフワッとはあったけれども、あくまでフワッと。会場入りして出番直前、共演のボイスパフォーマー 3CHI5さんと一緒にやりましょうという事になり、これまた舟橋は「しめしめ」と思ったのであった。

で、この日の即興演奏はここ最近で最も充実感を感じるものとなった。演奏しながらにして「どこにでもいける!」的な気持ちになるというといささか荒唐無稽が過ぎるかもしれないが、全能感さえ感じたのであった。これだから完成図のない瞬間作曲はやめられない。

コメント