「こそこそと」

僕の友人は絵を描く事が出来る。素直に羨ましい、と思う。
僕の友人は音楽を作る事が出来る。素直に羨ましい、と思う。
僕の友人は映像を作る事が出来る。素直に羨ましい、と思う。
僕の友人は写真を撮る事が出来る。素直に羨ましい、と思う。

僕が羨んでいるのはその腕前やその結果ではない。物事に打ち込む事自体を羨んでいる。
勿論僕だってそれらは出来るし(何ならちゃんと人前で披露するし時にはそれでお金を頂戴する水準のものだってある)、僕だってきっと人から見れば羨ましがられるものは持っているはずなのだ。
だけれども僕は素直に羨ましい。家で夜、一人で丁寧に丁寧に折り重ねて編み上げて製錬していく、その工程が羨ましい。
なんともそそるではないか、自室にて深夜、あーでもないこーでもないと自分自身のクリエイティビティだけを相棒に無限の可能性を秘めた表現の海原へ漕ぎ出していくだなんて、最高の贅沢な時間じゃなかろうか。
好きでその手段を選択した以上それは、どれだけ経済的対価を得ようとも本質的には趣味的な部分も持ち合わせているはずで、結局何が言いたいかというと僕は一人で自室で「こそこそと」楽しめる趣味らしい趣味がないというわけなのである。
僕って専ら人と交わらせて面白い、みたいなものの作り方をするもんだから自室で「こそこそと」っていうのは気質的には興味がない。だからこそ、羨ましい。
職人みたいで格好良いじゃないか、という、何、大した話じゃない、そんな次元の話だよ。
アイデンティティに関わったりは間違ってもしないし、何かを表現する際にその「羨ましい!」という感情が影響を及ぼすだなんて事も恐らくはないだろう。
昔でこそ自分一人で表現物を作る事に挑戦しようともしたけれども、続かない。出来上がる前に続かないっていうのはこれはもうそれがしたくないからだ、と諦めた。現状確認、前向きに、撤退!
悩んだりもしなかったわけじゃあないけれども(一時期は自分の中から出てきたもの、自分純度100%の表現に憧れ、それをどうにかして形に残したいと悪戦苦闘した。それに諦めた次はじゃあ自分のライフスタイル自体を作品にするしかないと思った。しばらくして、僕は自分の中から出てきた作品を人を巻き込んで形にする事に成功する)、どうせ世の中から他人がいなくなる事なんてまず在り得ない。そして他人から受ける刺激も自分の中から湧き起こる何かもそれを咀嚼する事で表現のきっかけとするのであれば材料という意味では結局は同じ、表現を成立させる段階で人を巻き込むという事はその行為自体が自分の表現の一部なわけだし、潔癖なまでに自分自身100%に固執する事が決してクリエイティブだとは思えなくなった。
僕が上記のような自室で「こそこそと」表現を重ねる事が出来る人間を羨むのは、きっと単純な憧れからだろう。
孤高のスナイパーを格好良い、というのと同じようなものだ。
一人で成立する趣味を持っている人間は格好良い。

じゃあなんでこんな事書いてるかっていうとだね、僕が夜中に自室で「こそこそと」楽しめる趣味の一つがこれだからだ。
ブログ更新。ふふふ、いいでしょう!!
あ、あとこんな趣味もあったな。

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