まるで、こんなんじゃあ。

昔程自分自身の話、つまり自意識や内面の葛藤(字面にすると何故ここまで青臭いのか)について長文でだらだらとまくし立てたり書き綴ったりしないのかというと、きっとそれは変に不安定でないからだろう。
昔このブログ(こういう時につくづく嬉しく思う、長い間ブログを書き綴ってきて良かった、と)に承認欲求剥き出しでそういうドロドロッとしたのを垂れ流していた頃と比べると、今の僕には当時よりかは成したものがあるしこの先成せるものも多いと感じている。自分自身をきっちり等身大で肯定出来るし必要量だけの否定も持ち合わせているつもりだ。
そうなってくると日々気付く事こそあれど、自分自身で声を大にして肯定してリカバリーしなきゃいけなくなる程の自己否定もしなくなってくるし、否定の後の、これまた声を大にして書き綴りたくなる程の気付きというのも得難くなってくる。
全ては積み重ね、どんどん研磨していった結果ではあるのだが、正直なあ。なんだかなあ。
安定こそはしているけれども、つまらないっちゃつまらないのだ。
日々の自分の行動や体験だけの記録だなんて、まるっきり日記じゃあないか。
僕はこのブログを僕並に僕に忠実にしたかったりするわけで、だからこそ日々の心境の変化や自意識と向き合った末の些末な変化も漏らさずに書き記しておきたいのだ。

ここ最近の、安定して、そりゃあ色々と失うものも得るものも多いけれども、それでも自分自身を決して裏切らないのは自分だけで、そこをクリアしたからこそ人と交わった際の自己に価値があるという本来の考え方を強く意識している僕はここ数年では一番安定しているのかもしれない。
日常の憂鬱も今まで生きてきた事とこれから生きていく事を考えると途端にその肉薄している生々しさを失い等身大のその姿を取り戻すわけだし、根拠もなくこれから先は昨日よりもっと楽しいと思っていた数年前よりかは今の方がその思いに根拠が感じられる、そんな時間を重ねている事を鑑みれば当然これから先の人生も自分がそうであろうと望めばそういう方向に向かうはずだ。

そして気付いた。こういう風に書き綴るというのは自慢であると同時に、きっちり今現在の自分の心情を書いているわけだし、ちゃんと記録だよな、書いた価値あるよな。
2014年11月の舟橋の忠実な記録。
ここまで読ませてごめん、特に展開する事もなく、ただの記述で終わってしまった。
お詫びに今夜撮影した吉村桜子さんの可愛い素敵な写真を貼っておきます。


女の子の可愛い画像が謝意の表明になる、と知ったのは同じく可愛い女の子が好きな遠方の友人の振舞からだった。

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